食文化も、農耕と同じように、エネルギー効率化の技術であったと思うんだ。消化をたすけ、病原を排除する。一つの食材が大量に取れる地域では、同じ食材を異なる味にし、また保存性を高めることは大切だったと感じる。
土、水、そして太陽の「恵み」をいかにいかすか。石油はおろか石炭すら無い社会では、動植物油か薪、木炭がせいぜいだ。枯渇性かつ環境を汚染する強力な化石資源利用はのぞめない。限られた恵みから食の効果をいかに引き出すか。これが食文化だと私は考えるんだ。
だから私は保存食や移動食に興味がある。伊勢物語……じゃない、土佐日記って確か米を干したの(「こわいい」だっけ?あれ全然違う?)を粥にして食べたりするシーンあるよね。干物食べたり。ああいうのに「へえー」って感じる。
精進料理にも興味がある。最近も水上勉の『土を喰う人々』を古本で十円で買った。まだちゃんと読んでないのだが、拾い読んでも、その姿勢の美しさに興奮する。
所謂「グルメの本」より、食うこと貪ることのすさまじさについて書かれた本に興味がある。『もの食う人々』みたいな、ね。
更に気違いに書くと、その日々の食の熱意と限界、そのすさまじさといじらしさの上においてのみ「まつり」の饗宴は理解できると思う。
想像して欲しい。日々の貧しい粗食と祭の日の饗宴の激しいコントラストを。現代のグルメな人よりも、はるかに強烈な食の体験がそこにはあったと思う。
酒と肉の世界。日常でない時間では、タブーは破られる。動物は丸焼きにされ、油は耿々と夜空を照らす。穀物は空高く投げられ地面に散り、酒は飲まれるにとどまらずに浴びせられる。箸は立てられ、食器は打ち鳴らされる。
また「まつり」における贄も、この文脈で理解できるかもしれない。最も失いたくないものだから、贄となるのである。最も大きく美しい羊は我(= 鋸)によって裂かれ、外形から内蔵に至るまで羊が神に捧げる犠牲として義しいことが示される。漢字で「義」は犠牲の羊が完璧であることを意味する。
罪から始まる起源への想起、その祈りとそれでもなお未来を築く決意が「まつり」なのだと感じる。
って何のはなしやら。