言語とは自由な道具ではない。なぜなら、言語とはある集団によって生まれたものであり、その制度の内部には既に固有の価値観が反映されているからである。つまり、ある価値観を保有している言語において、その言説は一定の傾向を持ち、それを乗り越えることはできない。
故に、価値観を乗り越える言説を為すためには飛躍が必要になる。その飛躍とは言語の有効な利用であるというよりかは、言語の破壊、言語という制度の読み違えから生まれると考えられる。言語の間違いから、新しい価値が垣間見えることがありえる。逆に「美しい」とされる言語の運用は、それ以前の価値の反復であり、新たな価値を提出することはない。
有効な言説は、従来の諸制度からの離脱、破壊から生まれる。が、言語とは伝達の手段である以上、プロトコル、つまり制度を持たざるを得ない。制度なき言語は伝達ができない。故に、新たな言語の可能性のあった「読み違え」や「破壊」が偶発ができ、それが広まったとしても、それが新たな価値となることは難しい。それ自体が、新たな制度として、従来の制度に吸収されてしまうからである。それほど、現代の制度は老獪である。
十分に老獪な現状の制度は全てを呑みこむ。たとえ、それが、反対勢力であったとしても。「今の制度をぶっつぶせ」という運動すら、その感情すら、現代の制度は老獪に吸収し、運用する。かくしてロックは産業となった。また、「今の制度と関係なく」も「今の制度とどうにか付き合いながら」という運動も柔軟に吸収する。エコの試みの惨状を見よ。公害に関連した運動の惨状を見よ。
現代の制度は、言論のための言論、つまり言論産業による、言論産業のための、言論産業の言論を生む。その制度は全てを吸収する。かくして、完全に言論はその元来の力を失う。太平洋戦争、南京事件、オウム、北朝鮮。。。すべて有効な言論の彼方の言論である。
有効な言論とは何か? それは力である。人の力である。力とは何か? 人の集まり「これだ!」という力、「そうだ!」という力、これは制度に還元されない元来の力である。制度を乗り越え、その場、その場の局面を乗り越えてゆく人間の力である。しかし、それを名指す言葉は現在ない。「これだ!」とか「そうだ!」と人が感じる力、としか言えない、今の私には。なさけないことだが。
その力に基づいた言説以外に言説はありえない。力のない言葉など言葉ですらない。
言論は力である。言論は人の力である。現状は刻々と変化する。その場、その場でしか言説は有効ではない。制度として固定した価値や言説は現状の変化に対応できない。固定化した制度としての言論は、言論ではない。
すべての固定した概念は、狡猾な現代の制度が吸収し、あるいは無力化できるものである。それは有効ではない。
有効な言説のために、言説を為せる人の集まりを為さねばならない。