2007-04-14

[書評] 集中講義! 日本の現代思想 / 仲正昌樹(2006)

一言で言うと、この本、高校の時に読みたかった。

私のアンテナが低いだけと言われれば、それまでだが、戦後の日本の思想史の本はあまり無かった気がする。こうした流れとして同時代を意識する視点がもう少し早くに欲しかった。

現代の若い人はどうか知らないが、私の高校時代には「教養」はすっかり滅んでいた。今も「思想」「文芸」を語る友を持つ高校生は少ないだろう。だからこそ、こうしたよくまとまった良書があれば便利だと思う。過去を知っておくことは現状を理解するのにとても役に立つ。語り会う友がいなくても、状況を教えてくれる先輩や先生がいなくても、この本を読むことで日本の学者・批評家が何をしてきたのかが大概はつかめると思う。そうすれば、どこをつつけばいいかも読めてくると思う。

他にこの手の本を読んだわけじゃないが、この本、詳細で幅広く、かつよくまとまっていると思う。著者の高い力量を感じる。それに索引どころか年表まで付いている。これは本当にお薦めである。著者の他の書籍も読みたくなった。

内容の詳細は本書で……と言いたいところだが、それじゃあ、あんまりなので話を流しておく。まず、マルクス主義の話から始まり、それが日本の現状とズレてるのに、ゴリゴリやって空回りという前提話をやって、そこに消費文化の成熟で「なんとなくクリスタル」な時代となると、理性批判なフランス現代思想がやって来て、ジャーナリズムや広告などの影響下に「日本版現代思想」となりニューアカになると。んで、それが90年代には終焉に向かい、思想の「スター化」ガ「カンタン系デフレ・スパイラル」し「水戸黄門化」したとのこと。

と、上の説明で分かる人には分かるだろうし、分からない人は本書を読めばよい。著者はニューアカに拾うべきものがあると考え、拾っていてそれは「大きな物語を無くしたポストモダン」「今は大きな物語生成過程」という話になるだろうか。ついでに君が高校生ならば丸山真男『日本の思想』でも押さえておくとよいと思う。これは戦前の思想家への批判であり、日本の「知識人」の悪いクセを批判している。これは今でも当然ながらほとんど変わらない。きっと、日本の思想の伝統にうんざりし、「哲学書」など読む気力が失せること請け合いだ。いや、また、そこに怒りを感じて一念発起する諸君もいるだろうが……

90年代の私の思い出

私は1980年生まれなので、思想闘争の後の時代しか生きていない。しかも中学の時にオウムのサリン事件があり、「イデオロギー」や「宗教」 = ヤバいというのが、同時代の共通認識だった。追い討ちをかけるように中学校の最後の時期から高校は「エヴァ・ブーム」となり、「自我」とか「アイデンティティー」の問題とかは、すっかりオタクな響きを持った。まあ、青少年の自然な自我への問題意識の欲求が、オウムの後の時代にあって正面からぶつかることができぬままくすぶり、それが倒錯した形で、つまり、その響きがある種のファッションとして現出したのだろう。

周りはオタクだらけだった(マンガ、アニメ、アイドル、アダルト)。オタクじゃなけりゃ、スポーツ・バカ(サッカー)であり、ギャンブル・ジャンキー(競馬、パチンコ、麻雀)だった。

私は哲学・文学オタクだったので、図書館で世界の名著や文学全集の全体にかみついていたが、それは「現代」まではカヴァーしていなかった。そして、本書のような適当な戦後日本思想史の本にも出会えなかった。だから、自分の同時代にどういう思想があるかなんて知りもしなかった。当然、そういう話をする友人もいなかった。

日本の戦後の思想に興味がなかったわけじゃない。気にはなっていた。しかし「スキゾ・キッズ」とか「ポストモダン」とか、そういう言葉を聞いただけで「うへっ! 80年代クセエ」という気分になってしまった(今の人には私は「90年代クセエ!」と言われるんだろうな)。まあ、読まないわけじゃないんだが、ほとんど食わず嫌いで、私はニュー・アカを避けてしまった。

そして現代の日本人が大体どういう枠組みでものを考えているか知らないままに、様々な活動を通じて意見を発信してしまった。私にとって予期せぬ誤解が生じたのは当然であった。特に自分より少し上の世代の高校の時にニューアカに触れた人は、私にとって意味不明だったし(フランス現代思想にのめり込み、意味不明な日本語を駆使する)、それより上の世代の多くのマルクスへの深い哀愁(?)がある人も意味不明だった。この本を読んでいれば、多くの誤解は防げたものと思う。

そもそも、今の若い皆さん、80年代に現代思想ブームがあったってこと自体、知ってました? っていうか、意味分かります?