2007-06-15

『インテグラル・ヨーガ』ヨーガ・スートラの分かりやすい解説

本書はスワミ・サッチダーナンダによる、パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』の解説書だ。『ヨーガ・スートラ』の全文が載せられていて、それぞれについてサッチダーナンダの解釈、解説が書いてある。この解説がなかなかで、神話や寓話も援用しつつヨーガの基本概念やスートラが意味することを説明してくれる。ヨーガを通じて平安な心を得たい人は是非よんでおきたい一冊である。

パタンジャリのヨーガスートラ

『ヨーガ・スートラ』とは

ヨーガ・スートラはインド哲学の1派であるヨーガ学派の根本経典。成立は2-4世紀頃。パタンジャリによって著されたとされる。
とwikipediaにある(参照)。

ただし、パタンジャリがヨーガを"発明"したという訳でないことにも注意が必要かもしれない。

彼は既に存在していた思想と行法を系統づけ、編纂しただけである。しかし、以来彼は"ヨーガの父"とみなされるようになった。そして彼の『スートラ』は、現代に百花斉放しているさまざまなタイプの瞑想とヨーガすべての土台となっているのである。

体を柔らかくする体操としてのヨーガではなく、「心の科学」としてのヨーガが本書の内容である。

サッチダーナンダがヨーガスートラを平易に解説

魂の科学としてのスートラの本文は

1. これよりヨーガを明細に説く。
2. 心の作用を止滅することが、ヨーガである。
3. そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態にとどまる。
という具合でなかなか分かりにくい。それに対し、著者が分かりやすく、説明してくれる。

ともすると哲学的で何回な内容が、彼の具体的な話や、神話や寓話などによってほぐされ、心にすーっと入って来て、「いかに生きるか」「私とは何か」という問題に、明快な答を与えてくれるだろう。

平安は「無私の奉仕」を通じて

「さて、その教えは?」ということになるが、誤解を避けるために詳しくは本書を読んで欲しい。が、それじゃああんまりなので一応抜書すると彼の中心となる主張は以下の通りである。

〈自己〉について語る聖典は、単なる知的理解のためのものだ。だが自我(エゴ)のための本当に実利的な真理は、非常に単純だ。ただ無私たることを学べ。献身的な生活を送れ。何を為すにも、それを他者のために為せ。献身する者は常に平安を享受する……。私が聖典についてあまり多くを語らないのはそのためである。私の学生たちはおそらく、私が『ヨーガ・スートラ』について本を書くことを望んでいるだろう。だから私はこれらのすべてを語ってきたわけだが、私自身としては、本当はわれわれには聖典は要らないと感じている。生活のすべてが開かれた書物、すなわち聖典である。それを読もう。(……)日々の行動から学べなくて、どのように聖典を理解しようというのだ?

「自己」は「観察者」になる

誤解を恐れずさらに書くすると、本来の自己とは常に「目撃者」や「見る者」「知る者」であり、見られたり対象化されるものではない。その知る者以外は見られ、知られる自然であり、それは体や心を含む。つまり、心や体は「見られる」のであるから、本来の自己ではないのである。繰り返すが、本来の自己とは対象化される性格のものではないのである。

こう書くと、そうした自己に出会う方法はないように思えるが、私たちは常々自分を「知っている」と思う。これは心を鏡として自分を映しているからだと考えられる。ただ、その心という鏡は常に曇ったり歪んだりしているのが実情であり、本当の自己を正確には写せない。

そこで「心の止滅」が重要となり、戒めを守り、坐し、呼吸や心を整え、集中し、瞑想し、三昧に達すると本当の自己となるということである。そうすると、自己に知られる「自然」は、自己を鍛える必要がなくなるため、完全な平安になるということだ。

自己は「行為者」であることをやめ、気づき続ける「目撃者」となり、善悪を離れ、自由となるだろう。ただ、だからと言って心や体が苦痛を覚えない訳ではない(自己は苦痛から自由にしても)。それ故、苦痛を生まない行動を自然にする訳であるが、それは「個人的な期待のない無私の奉仕」である。利己的な行動は結局は必ず苦痛を生み、無私の奉仕は結局は苦痛から離れている。

"期待を伴う愛"が長続きすることは、めったにない。だから、苦痛なき思いに見える愛といえども、もしそれが利己に根ざしたものであれば、結局は苦に終わる。

一方、"怒り"のような思いは、はじめは苦しい。だが、背後に個人的な動機を持たない無私な人間の怒りは、はじめは相手に悪い感情を起こさせるかもしれないが、結果的には相手を正し、より良い生に導く。

そうした無私の奉仕に生きる人にとって、人生とは「遊戯」となると彼は語る。

ただし、

33 他の幸福を喜び 不幸を憐み 他の有徳を喜び 不徳を捨てる態度を培うことによって、心は乱れなき清浄を保つ。
とあり、その解説に
邪な人々というのも確かにいる。それは否定できない。ではそういうときわれわれはどういう態度をとるべきか? 無関心である。「そう、そういう人もいるだろう。だが昨日の私もそうではなかったか? そして、今日の私は多少ましになってはいないか? その人も、明日には多少ましになっているだろう。」彼に忠告しようとするなかれ。邪な人間というものは、まずそんな忠告は取り合わない。彼に忠告しようとすれば、こちらの平安が失われる --
ともあり、あくまでも怒っていいのは、教師や親など立場が上ということが確保されている場合以外には、慎重にならねばならないだろう。利己と無私を区別するのは、難しいのだから。

さて、あまり深入りすると泥沼なので、この程度にしておく。是非とも手にとって欲しい。ヨーガの真髄に触れられるかもしれない。

*

やはりインドは奥ぶかいと感じさせてくれる一冊。ヨーガに興味がある人だけじゃない。仏教に興味がある人、インドそのものにに興味がある人にとって、興味深い本であろうし、何よりも、生きることを悩める人には本書を通じヨーガの叡智に触れてほしいと願ってやまない。

著者の解説は分かりやすく、とても面白い。決して堅苦しい説明ではなく、ある意味気楽に読めるだろう。そして、その中には人生に対する教訓が豊富につまっている。ただ、無私に生きることを説くのは著者の解釈のように思えるので、他の人のスートラの解釈も読んだ方がよいかもしれない。

全体として考えると、いかにヨーガが仏教と近い場所にあったかを改めて感じる。ただ、それも他のインド哲学を知らない私には、詳しくは分析できない。機会があれば、他のインド哲学やヒンドゥー教の本も読んでおきたい。

それにしても、なぜ、インドはこんなにも深いのだろう?