ハイデガー『存在と時間』は道元『正法眼蔵』の影響?にも書いた通り、ハイデガーは彼の存在論の発想を道元から得たとの情報に触れたので、どうにも哲学魂が騒いで騒いで仕方ない。
いや、そういう学問的なものだけでなく、自分の人生の大きな問題でもある。
ただ、私は道元を知らない。『正法眼蔵』も岩波の一巻を買ったきりで、それすらも通読はしていない。有事の巻は含まれていない。
残念ながら手元に有事の巻の原文がないので松門寺さんのサイトに正法眼蔵全文があるので、第二十 有時を読んでみることにする。
とはいえ、情けないことにさっぱり歯が立たない。須田隆良さんによる正法眼蔵 第二十 有時の解説と現代語訳があるのでそれを読んでみる。
そしてもう一度原文を読んでみる。と、なんだか大体分かって来た気がする。が、やっぱり分からない。なんだか、道元はライフワークになってしまいそうな予感。
そこでグーグル様に訊いてみる。知的堕落である。
華頂女子高校のブログの今月のことばが「我 今尽力して現成するなり」を取り上げていて、ハイデガーともからめた解説で、とても参考になる。
「現成(げんじょう)」という語は、ドイツ語ではAnwesen(アンベーセン)であろう。Wesen(本質)の意味を深く解して、20世紀のドイツの哲学者ハイデッガーは、『芸術作品のはじまり』で「神殿を通して神は、神殿の中に現成している。このような神の現成が、それ自身において一つの聖なる境域としての区域をおし広げ、限界づける」と述べている。アンベーセンは「滞在」などの意味だが、彼は「立ち現れ」ることに解している。神殿に隠れている神が、空間をおし広げ、神域をつくるのである。なんだか道元の「現成」という語が、独逸哲学の翻訳語のような扱いだか、不思議なことに、とても分かりやすい。神殿という場において、不在ながらも本質において立ち現れる神などと夢想は広がる。神と名指されるようなものだけでなく、存在とはそういうことなのかもしれない。
それは置いておいて有時の意味を読むと
道元は「有時(ゆうじ)」の巻で、ありとあらゆる存在である事物や現象は、「われ」が力を尽くして「現成」させている、という。「歴史性」の話が出てくる。実は「場」を考えていて「歴史」が出て来ると私はいつも戸惑ってしまった。『存在と時間』も興味深く読んだのだが、「歴史」ということが分からなかった。いや、そういう形で理解したくなかったのかもしれない。そこで、道元の方が興味深い。「有時」は「存在と時間」という意味であるが、ハイデッガーの主著『存在と時間』以上に道元の思考は徹底している。ハイデッガーは、死への存在としての人間が運命や民族を自覚して世界を開くところに時間の根源的現象を認めているが、道元は、もっと普遍的に時は即ち有(存在)であるとし、さらに「われ」とは時であるともいう。
そこでfinalventさんは何を書いてるかと読んでみる。私の前に携帯電話が存在するということ、あるいは現成公案が、とても分かりやすく有時を説明しているように思える。
私は携帯電話に向き合う、いまこの時の場(有時)のなかに、携帯電話ともに生起して存在している。私と携帯電話は分離した存在だが、この有時にあって不可分な存在だ。こうした主客未分離のいまここの場が有時ということになる。更にfinalventさんは
私は、そのように、ある。そのように存在すべく、在らしめれている。私とはこの携帯電話と共時にこの有時に生起しているのである。更にさとりも解説している。
そうした有時の己のあらしめられるありかたが明らかになるのが、さとりである。そこで、もの思う我は、この共時にあらしめられる我へと、一方は暗く、なる。他にも古今の時に不空なりやLebenswelt、有情などを読むとインスタントに道元の理解/誤解ができた気がする。仏道をならふというふは、自己をならふなり。自己をならふといふは自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
方向としては興味があるので道元禅を更に探求したくなった。