私は悩むことを愚かなことと考えている。しかし、私は悩む。それも、人よりも断然悩む傾向がある。
開き直るわけではないが、そんな私はとてもじゃないが、悩むことを否定して生きているわけにもいかない。だから、少々、悩むことについて悩んでみる。読者よ、笑うなかれ。いや、笑ってくれた方がよいか。誠に愚か者は救いようがない。
本当に残念なことだが、悩むのが愚かであり時間の無駄であることをいくら頭で理解しても体が聞いてくれないのである。自分がいて悩むというよりは、惱みがあって自分を突き動かしているようになってしまう。
特に蒲団の中がつらい。寝られないのである。何かが湧き上がり、いてもたってもいられなくなる。羊を数えれば寝られるかと思い三千匹以上を数えて朝になったこともある。
想像して欲しい。「羊がサンゼン、サンビャク、ゴジュウ、ロッピキ、羊がサンゼン、サンビャク、ゴジュウ、ナナヒキ」と数えている姿を。蒲団の中でもだえているのである。確実にアホウである。それも真剣に寝たがっているのだから、救いようがない。
そう、昔は大学ノートに悩みを書きつけた。ひどいもんである。下手くそな文書はもちろん、どうしようもなく下手な絵から(それも女の絵である。救いようがない)、詩から(ほとんどが女性や芸術についてである)、作曲から(あははははー)という状況である。全滅の壊滅状態であり、状況は絶望的である。
中でも絵がひどい。私が夜中に渾身の集中力を注いで描いた「美女」の絵を見て欲しい。筆力があまりに足らず、なんとも、不気味な不細工が描かれているだけである。それが、ただ下手ならそれはそれでいいのだが、画力がないくせに、どうしても美女に描きたくて様々に魅力的にしようと努力しているのだから、更に本当にお話にならない。本当に始末が悪い。
しかも、その「美女」とやらが電車の中で見ただけなのだから、話にならない。知りあいでも何でもないのである。今となっては、その彼女が本当に美女なのかそうかも、全然分からない。ただ若い時の熱に浮かされていただけなのだろう。
ただ、それでも若い時はよかった。惱みのモヤモヤが性的なモヤモヤと同様に処理されやすかった。つまり、ゴチャゴチャ大学ノートにエネルギーをぶつけ、ちょっと疲れたな、という頃にアレをしたら、案外すっきりと寝られたのである。単純なもんである。
問題は最近である。「ブラフマチャリヤ」とかほざいてみても、案外できてしまうわけだし、アレをしなくてもよくなってきてしまった。当然、眠れない時にもしたくなるわけでもないし、しても寝られない。
まあ、それはそれでよいのだが、なんともはや。
いや、そんな話ではなかった。惱みの話であった。
いや、何だかアホな文書を書いてたら、どうでもよくなってしまった。万一、ここまで読んでしまった方に「アホな文書」というのもすまないが、まあ、いわば、寝付けない夜に、寝るためのアレの代わりに書いただけである。
いや、失礼。申し訳ない。