たぶん、哲学を好きになる人というのは切っ掛けがあると思う。ある友人は、芸術というものを現象学で考えたいという切っ掛けがあった。ある友人は、そこに手を入れると三次元の切れ目となる場所を見付けたいという切っ掛けがあった。いや、そもそも、そういう空想に浸る傾向があったといういうべきか。
私の場合の切っ掛けは二つあると思う。一つは音楽の問題。もう一つは今回おはなしする、高校時代からの空想だ。
それは中学校三年生の秋口のことだ。私は連続ものの夢をみた。悪魔から友人とともに逃げ、毎晩毎晩、友人が失われてゆくという夢だった。こういう夢が一カ月続いた。
そして、最後一人になった私は、悪魔から逃れるため、砂漠にポツンと立つビルの屋上から飛び降りるたのだった。飛び降りるシーンだけの夢を三日くらい見た後、ビルから落ちる夢を連続で三週間ほど見続けることになった。
こうした落る夢を見続けることで、私は「砂漠に立つビル」という世界が、実体のように感じられるようになった。いや、無いのは知っているのだが、実感としては行ったことがある空間という感覚になってしまった。どうにも、奇妙な感覚であり、心にいつまでもシコリとなっていた。
高校に入り、雑多に乱読をしているうちに、こうした感覚はいくつかのまとまった思考になった。いくらか矛盾もあり雑駁だがしたためておく。
まず、高校時代の私は、時間と空間を無限と考えていた。それ故、いま起きたことは、いつか必ず、将来にもまた起きるだろうし、いま起きていることは、過去にも何度も起きていたと考える習慣がついていた。勿論、ニーチェの永劫回帰の影響である。
こうした考えを更に敷衍すると、永劫回帰するのは、何も「いまの出来事」に限る必要はなくなる。そんなケチなこと言わないで、ありえるだろう「いかなる事象」も過去にあったし未来にもあるだろうということになる。全く無限の時間と空間の中では、有限な物質が自由に振る舞う中で可能な「いかなる事象」でも起きるのである。
こうした思弁は私をどういう訳か興奮させた。「では、私の夢も過去にあったかもしれないし、これから起きるかもしれない」という訳である。
ここで、問題が当然のように生じる。まず、組み合わせとして起きる可能性は限られているのであり、起こる事象も限りがある。ただ、私は夢での出来事が「可能な事象」に思われた。もちろん根拠はない。
次に、そうした「出来事」が起きたとして、それが私に何の影響があるのか、ということである。つまり、私が夢の中で「経験」した「砂漠に立つのビル」が本当に「あった」なり「あるだろう」として、それが、他ならない私に何の影響があるのか、ということである。実はこれは自分が永劫回帰するとしても、その「あった」なり「あるだろう」全く同じ「私」の出来事が、他ならない今まさにこと時に何の影響があるのか、という問題とも関連する。
ここで空想は更に広がる。将来または過去において、全く私が夢で「経験」し「体感」したような出来事が起きるとして、更に、その「私」が夢の中で感じたり考えたりするのと同じような行為をして、全く同じ記憶なりを持っていたとする。つまり、完全に、夢の中の私が、実際のプロセスとして起きたという場合を考える。それが果たして、他ならぬ今ここで表れている「私」にとって意味があるのか。
こうした疑問がそもそもの前置きとなり、ここから急激に私の思弁は変化する。こうした疑問は「そもそも『ある』とは何だろう? 『ある』と『認識』することとは何だろう? そして、何かが『ある』ということと、今まさにここに『ある』『私』とはどういうことなのだろう?」という具合につながっていったのである。こうした問題が、それほど整理されないで、雑駁に矛盾しながら襲って来たという感覚だった。
高校一年の時の日記の記述によれば、私はこの「悪夢」の他に「夜道を歩いている時に電柱が一瞬人に見えてしまうこと」や「どこか遠い宇宙に『ある』もの」を考えていたことが分かる。「他ならぬ私にとって、一瞬電柱が人に見えたとして、人に見えた瞬間に死んでしまったらどうなるのだろう? あるいは人だと思ったまま、道を曲がってしまったら、私にとっては、それは人になっていることになる」「遠い宇宙に、なにかが『ある』としても、私が知る可能性がなかったとしたら、私にとっては『ある』とは言えないのではないか? 私にとっては『あってもなくても同じ』ことだ」
こうして、「世界が過去や将来に回帰したとしても他ならぬ今ここの私にとっては関係がない」ことから、「存在とは認識によって成立する」ことを考えた私は、そのまま「真理」とは「整合性」として考えてゆき、整合性とは制御や予測などによる「有益さ」に基づくという考えに落ち着く。つまらない結論であるが。
ここから、仮に「実体験」のように「あるはずのない経験」をしたとしても、そこに有益性に基づいた整合性がないのだとしたら「それは存在したのではない」と導くことになった。存在は直接に与えられず、現象の認識があるのみからである。まあ、大袈裟な話だったが、当たり前のことを確認しただけである。つまり、夢は夢、現実は現実なのである。「時間や空間の無限/有限」問題や「どこかにいるもう一人の私」問題を考える愚かさを学んだともいえる。
そして「真実の存在」「実在」という問題は消去された。それは端的に知りえない。のみならず、それを知るときには、今まさにここで生きている私には、いかなる意味でも「関係がない」。知りえないのみならず、意味が成立しないのである。
ただ、それでも問題は残り続けた。「夜道の電柱」問題である。あるいは「夜道の幽霊」問題と言ってもよい。私は元来、幻覚を見やすい。UFOだって、軍服を来た幽霊だって、人魂だって一通りは「見て」いる。霊的な場所に行けば当然のように他の人には聴こえない「音」が聴こえるし、体を切られたりもする。
この場合は、実体験のようにないはずの経験をして、実際に切れてしまったという場合である。この場合、夢のように整合性がないのではない。「あった」と言った方がスッキリするのである。
ここで、私は、「それ」は存在はしていないが(いや、実在なんて分からないからか)、私にとっての現象としては「あった」という処理になった。つまり、他の事物の存在を言う時のように存在しているとは決して言わず、ただ「見えた」という「認識」だけがあったと考えることにしたのである。そして、「霊」や「神」、「悪魔」が「存在する」とは決して言わず、そうしたのを「感じてしまう仕組み」が私の認識システムには組込まれていると考えるようになった。
この考えは、「『ある』」は問題ではなく、「認識する」というプロセスが重要なのだという流れになる。万物は存在せず、「存在する」という認識というプロセスが起きているのみなのである。ただ、そうしたプロセスの連関の中で、諸要素そのものは「存在しない」のである。
いや、ここまで書いておいてあれだけど、これは最近の考えに影響されすぎてる。高校の時はもっと、違ったことを考えていた気がする。ただ、最終的にこのプロセスのネットワークという考えは、19の頃のトポス(場)へと繋がってゆくのだろうが。
まあ、いいや。そんなこんなで。