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早寝早起きをしようと思い夕方六時に寝たら、零時に目が覚めてしまった。仕事を開始したら、午前十時にはすることがなくなってしまった。さて、どうするか。
なんとなしにネットを開きスケジュール帳を開く。そういえば、等伯と応挙を見られるのではないかと思った ―― 調べてみれば思ったとおり、等伯の松林図屏風も応挙の松雪図屏風も、まだ見られる。早速、出かけることにした。
そういうわけで等伯の松林図屏風について、妄言を少々。
長谷川等伯「松林図」屏風(東京国立美術館蔵)
昼頃、上野に着き、国立博物館へ向かう。縄文の土器と遮光器土偶に足を止め、飛鳥の仏像を抜けていると、奥に光るものがある。等伯である。
松林が光っている。確かに光っているのである。私は最初、あちらから光で透かしているのかと思った。もちろん、通常の明かりの元に置かれているだけである。
なぜか? 分からない。分からないが、ゆっくりと屏風に近づく。光の中に、明らかに三次元的な奥行きの中に、私は松林を知覚している。
私は更に屏風に近づかざるを得ない。
静謐 ―― と最初は感じる。緻密に描かれた松林は、明らかな生命力を感じさせつつも、あくまで静かに、幽玄な趣で風に揺れている。風? そう、風に ―― と感じたところで、松は風の中で揺れている。既に私は屏風から5メートル程のところにいる。近づけば、静謐に思われた松林は、どうしたことだろう、明らかに揺れ動いているではないか。そして、更に近づけば、緻密に描かれたと思われた松林は、激しい筆遣いで屏風に擦り付けられている一色の墨に過ぎぬではないか。
かくも荒々しい筆遣いの水墨画が、あれほどまでに静謐で幽玄な印象を与えるとはどうしたことか ―― 思うのは、全ては計算されているということ。緻密に描いたのでは、幽玄は描き得ないのかと思う。つまり、あらあらしいかすれの中にこそ、いや、そうした筆遣いを通じてこそ、静けさが訪れるのかと。
「松林図」屏風の一部(文化遺産オンラインより)
更に思う、やはり、現象とは形式であるのかと。すなわち、等伯が描いたのは筆遣いの痕跡に過ぎぬが、そこに形式が存在し、それが松林という現象をあらしめたのかと。つまり、もし、等伯が緻密に松林を描いていたならば、逆に「絵」であることが表に立ち、「巧みに描写された絵」にはなろうが、決して、松林という現象は立ち現れなかったのではなかろうかと。
巧みに描かれた絵は、絵であることを主張してしまう。等伯の絵に絵は存在しない。ただ、松林を立ち現せる、筆の痕跡、その何がしかの痕跡しか存在しないのである。それが離れてみたときに、現象を生じさせているのである。
なるほど、だから、光っていたのか ―― と、一人で合点がゆく。思うに、等伯は絵を書いてはいない、絵を見せてはいない。ただ、その痕跡の形式を受けた光が、人の目に届くところにおいての現象を求め、筆を揮ったのではなかろうか。
それをただの錯覚と言うかもしれない。そう、錯覚である。しかし、ここで重要なことは、錯覚をもって知覚せしむることと、緻密に描かれた絵をもって(結局は錯覚なのだが)知覚せしむることでは、どちらが、存在を立ち現せしめるかということである。いかなる写実的描写(つまるところは写真になろうか)よりも更に、等伯の絵が、我々の知覚において、現実の存在を立ち現させるのではなかろうか。実に等伯の松林の存在感は気味の悪いほどであった。
光の魔術師 ―― 等伯は、いや水墨画の傑出した作家は、「画家」と呼ぶより、「魔術師」と呼ぶが相応しいように思う。彼らの絵は、紙には描かれない。光の舞う空間に、あるいは光を知覚する人の心の内に、ある現象を描くのである。
いや、理屈は分かる。分かるが、果たしてこれは人の業だろうか。近くに来れば痕跡が見えてしまう奇蹟など、ナンセンスもいいところだ。あくまで、様々な地点からの幻視を狙い澄ました人の奇術と思う。むしろ、あくまでも天衣無縫たるダ・ヴィンチやフェルメールのごとき業が、神の業かと疑うべきものであろう。
ここで、くどくどとダ・ヴィンチやフェルメールについて語る余裕はないが、少し比較するとこれが面白い。彼らの絵は、一瞬の沈黙を描いている。まさに、絵なのである。特にフェルメールに甚だしいが、針を床に落とし、その小さいが鋭い響きが鳴り渡る瞬間の部屋の中の光を全て捉えてしまったかのような絵を描く。一瞬は静止し、永遠に世界は沈黙を鳴り響かせ続けている。
ヨハネス・フェルメール「真珠の耳飾の少女」(デン・ハーグ、マウリッツハイス美術館蔵)
等伯はどうか? 逆である。まったく逆である。絵は止まらない。動くのである。風は見えるし、聞こえるのである。気がつくと、屏風はない。描かれたものは無い。そう、絵ではないのだ。私は何を見ているのか? こう問えば、私は私の幻想を見ていることに気づかざるを得ない。そして、思う。しかし、それならば、世界もまた、実は、等伯のごとき、魂の宿った墨の痕跡で、できているのではないかと。
夢 ―― そう、夢かもしれない。それもいい夢ではない。悪夢とはいわぬが、なにか物の怪の支配する、そうした夢である。そうか、これは能の世界ではないか ―― 気がつけば当たり前のことである。その世界の質感は能のそれである。
能の時空の感覚とは、なにか「ありえないもの」がそのその場限りで一回的に立ち現れ、舞い、謡う。演技ではなく、神が、武人が、狂人が、鬼が、実際に現前し、明らかに行為をし、因縁を結ぶ、そうした時間・空間の世界である ―― 見られるもの、見るものは切り離されない。あらわれた因縁は、その場の共有において、結ばれてゆく。
この屏風もまた、見られるものではなく、ただ置かれてあるものとして、空間にあらぬものを現前させる。それが現象としての世界の安心を突き崩す。極めて醒めた思考で、あちらが本物ではないかと思わせてしまう。あるいは、私が生きる世界もまた、あの荒々しい墨の痕跡ではないのかと。
まあ、これは大げさであり、目は逆に緻密に描かれていないものを遠くから見たときに、逆に補完機能が自由になり、三次元の知覚を始めてしまうということなのだろう。見えないからこそ、逆に実在感というか世界感が増し、逆に「見えている」と感じさせる手法は西洋でもある。セザンヌや、あるいはキュービズムなどを考えれば、原理は水墨画と同じかと思う(いや、これは語弊があるな)。
とにかく、正月からいいものを見せてもらえた。これでしばらく絵画、あるいは現象について考えさせてもらえそうである。そうそう、来週は雪舟の秋冬山水図を見に行くことにしよう。
では、そんなこんなで。ちなみに、応挙の松林図も見たが、こっちはまた後日。