2008-05-28

Paco de Lucía 『Cositas Buenas』 (2004) までの歩み

先日のポーティスヘッドのエントリでマッシヴ・アタックの他にゼロ年代に感動したアルバムがなかったように書いたが、どう考えてもパコ・デ・ルシアの存在を忘れていた。『Cositas Buenas(コシータス・ブエナス)』 (2004) だ。毎度おこがましいが、今回は未だ越える者のないフラメンコのギタリスト、パコ・デ・ルシアを紹介してみる。

1. 生い立ち

パコ・デ・ルシア (Paco de Lucía) は1947年、スペイン南部アンダルシア地方の港町アルヘシラスの生まれた。海を見て育った彼は「海を見ていないといられない」とインタビューで語っている。

アルヘシラスからはモロッコのタンジェへのフェリーが出ている。実は私は19歳の時に地中海を渡ってモロッコへ行ったときに立ち寄ったことがある。海と酒と音楽が調和した静かな街だった。時間が止まったかのように静かな街を、強い日射しに照らされながら歩き、夜は遅くまでバルで飲んだ。パコの大きな銅像が、海に向かってたっていた。この下で、下手なフラメンコを弾いて、地元のおっさんと楽しくやった思い出がある。

パコは若干12歳で兄とのデュオで初レコーディングし、世に認められ兄弟でホセ・グレコ舞踏団と共に世界を巡る。その歳にニューヨークでフラメンコの巨匠サビーカスと出会い独自のスタイルへ向けた助言をもらう。

19歳で初のソロ・アルバム 『La fabulosa guitarra de Paco de Lucía 』 (1967) をリリースする。このアルバムはリカルドやサビーカスの影響の強い、その意味では伝統に近い音色のフラメンコが聴ける。このアルバムで日本でもパコのことが知られるようになる。

2. カマロンとの出会い

軌道に乗り出したパコはここで一人の若い歌い手と出逢う。カマロン・デ・ラ・イスラ (Camarón de la Isla) だ。1950年カディスに生まれ8歳の頃からタブラオで歌っていたカマロンは、1968年からトレス・ベルメハスのタブラオに入門していた。

若い二人のデュエンデは一枚のアルバムを生み出す。『Al verte las flores lloran(君を見ると花が泣く)』(1968) はパコが21歳、カマロンは18歳の作品である。ここでアルバム・タイトルになっている冒頭の濃密な熱気に満ちた曲を聴いてみて欲しい。

意気投合した二人は1977年までに10枚のアルバムをリリースする。カマロンはスペインにおいて国民的歌手と言われるまでの人気を博す。しかし、若くして成功したカマロンはフラメンコの世界に身を崩してゆく。1992年にわずか42歳でカマロンは死んでしまう。死因は肺癌とも麻薬中毒とも言われている。彼の葬儀には10万人以上が駆け付けた。

3. フラメンコの革命

さて、カマロンの伴奏の一方で、パコは独自のスタイルへの追求を突き進めていった。その成果は『Almoraima アルモライマ』 (1976) に結実する。フラメンコの概念を転覆させたこのアルバムは20年以上経た現在もパコ・デ・ルシアの最高傑作との声も高い。ここでは冒頭のアルバム・タイトル曲のブレリアスを聴いて欲しい。

このスピード感溢れる革新的フラメンコはその後も続いてゆき、例えば 『Siroco』(1987) がパコの最高傑作と言われることも多い。とはいえ、私はそれほどの印象を受けなかったが。

5. フュージョンやクラシックへの進出

パコ・デ・ルシアの名をフラメンコの世界の外にまで有名にしたのは何といってもスーパー・ギター・トリオーでの活躍だろう。

1977年、フュージョン系ギタリスト、アル・ディ・メオラのアルバム『Elegant Gypsy (エレガント・ジプシー)』にパコは参加、二人は「Mediterranean Sundance (地中海の舞踏)」にて初の共演を果たす。これがパコのジャズ・フュージョン界での認知の切っ掛けとなる。ちなみにこのアルバムに含まれる「Battle with Devil on the Spanish Highway (スペイン高速、悪魔との死闘」は最速の速弾き曲としても有名である(この噂、本当?)。

アル・ディ・メオラ (Al Di Meola, 1954- ) は74年からチック・コリア率いるフュージョン・バンド「RETURN TO FOREVER (リターン・トゥ・フォーエヴァー)」に参加、76年の同グループ解散後、『Elegant Gypsy』が二枚目のソロアルバムだった。Wikipedia によれば彼は「ギタープレイヤーマガジン」誌の読者投票で四回も「最も優れたジャズギタリスト」に選ばれているらしい。力強い超絶速弾き、特にミュートさせた状態でのボコボコさせた速弾きが特徴的であり、この技は彼がまだ小さい頃、家族の迷惑にならないで夜中に練習している内に習得したものと語っている。

この「Mediterranean Sundance」の好演が切っ掛けとなりパコはジャズ・フュージョン界からも注目され、1979年にはパコ・デ・ルシア、ジョン・マクラフリンとラリー・コリエルと三人での共演が実現する。その後、アル、ラリーやビレリ・ラグエーンなどが入れ替わり参加し、史上例をみない豪華なメンバーによるギター・トリオは好評を博した。まあ要は腕に覚えのあるギタリストがアコギでギターバトルをしたかったのだろう。

ジョン・マクラフリン(John McLaughlin, 1942- ) はイギリス出身のテクニシャンとして知られるギタリストで、1970年代ジャズ・ロックシーンにおいて重要なグループ「マハヴィシュヌ・オーケストラ」のリーダーだった。超絶不思議フレーズを「いかにも何かありそうな」余裕の微笑みとともにいつまでもいつまでも繰り出し続けるのが特徴である。

完全に余談だが、マクラフリンはヒンドゥー教徒に改宗し、確かスリチンモイとかいう名前のヒンドゥー教の高名な指導者の弟子になった。同じく弟子になったカルロス・サンタナとは宗教上の兄弟であり、二人で白い服を来たあやしげなアルバムも家で見掛けた記憶がある。中身はいまいちだったと思う。おもえば面白い時代だった。

さて、バカ話はやめておこう。ここではライブ盤の 『Friday Night in San Francisco』(1980) から「Mediterranean Sundance」を聴いてみよう。

たぶんギタリストにとってはたまらないものがある熱演だが、ギターに興味のない人には冷い目でも見られがちな音楽でもある。それでも、このアルバムとスタジオ盤である 『Passion, Grace and Fire(情炎)』 (1982) は1995年までに計350枚も売り上げたらしい。その後、再結成され 『THE GUITAR TRIO』(1996) もリリースしている。ちょうど私は高校生で、十代の頃、同じくギター好きの叔父が遊びにくると、私がパコ、叔父がアル役でよく真似をしたものだった。

ちなみに、パコが取り組んだのはフュージョン・ジャズの世界だけではない。彼はスペイン民族主義時代の偉大な作曲家マヌエル・デ・ファリャに取り組み、1978年に『Interpreta A Manuel De Falla』、91年には同じく近代の巨匠ロドリーゴのアランフェス協奏曲に取り組み『Concierto De Aranjuez』をリリースしている。

6. 動から静へ - 歩み続けるパコ・デ・ルシア

1998年、50代を迎えたパコ・デ・ルシアは、亡くなった母親へのオマージュアルバム『Luzía』をリリースする。このディスクには、母に捧げたシギリーヤ、そしてカマロンに捧げたロンディーニャが入っており、この2曲でパコは初めて歌っている。悲しみと嘆きとが淡く底に広がった世界に、パコの死を悼むかすれた歌が響く。

2004年には5年間の沈黙を破り、 『Cositas Buenas』 がリリースされた。変幻自在とでも言うべきか。どう言えばいいのだろう。激しさもあるが、過去のようなそれではない。ごく薄く哀しみも感じるが、どこか無邪気な明るい楽しさもある。

この音に触れたときも、いわくいい難いサウンドの中に「ああ、なるほど」と感じた。彼なりの正直に世の中を見つづけた音がそこにあるのだと思った。ただ彼は歩き続けるのだろう。そう私は思う。未だあらわされていないニュアンスをあらわすために。

ちなみに「Cositas Buenas(コシータス・ブエナス)」とは「素晴らしい小さなもの」という意味である。