2009-01-18

自分の希望を叶えるには、まず人の有能感を満たすこと

このエントリーをはてなブックマークに追加

夜のファミレスにはなかなか帰らない客が来るものだ。僕は彼らから多くを学べた。

十代の頃、僕はファミレスでバイトをしていた。和食でちょっと高めのファミレス。こう言えば、大体どの店か分かってくれるかもしれない。

僕は深夜枠で働いていた。閉店は2時。次の朝の大学のことも考えると一秒でも早く店を閉め、家に帰りたかった。

しかし、帰らない客というのも多くいた。

それは大概、五十過ぎのおっさんだった。

日本酒を頼み、ちびりちびりと呑む。そして、ぽつりぽつりとつまみの注文を入れる。そして、いつも閉店時間よりも遅くに帰るのだ。

僕は若かった。僕は彼に「閉店時間は2時になっておりますので、宜しくお願いします」と言ったことがある。

失敗だった。

おっさんはぶちきれた。――俺は客だ。頼んだ酒を呑んでて何が悪い?――その夜は眠らせてもらえなかった。

こういうおっさんは一人ではなかった。

世の中にはいるものだ。深夜の住宅地のファミレスで、一人酒をのむおっさんというものが。まあ、今なら彼らの気持ちが分かるが。

ところで、僕は考えた。どう言えばいいのかを。どうすれば、僕は早く家に帰れるのかを。

結論はシンプルだ。彼らを満足させればいいのである。充実感を、自信を、有能感を取り戻させればいいのである。

彼らは――そして今となっては僕もかもしれないが――人のしがらみと組織の論理の中に溺れ、自分の存在感を掴めていないのである。虚しく、打ちひしがれているのである。

そうでなければ、自分の家で家族の前で酒を呑めばいいではないか。そうでなければ、会社の傍で同僚と酒を呑めばいいではないか。

そうした彼に、僕は「閉店時間」という理屈をこねた。既に彼らはルールの中で溺れている。それをなおさら若造ごときに理屈を捏ねられれば、平日の深夜とはいえ、朝までクレームを言いたくなるのも人情というものである。

僕は、そうした彼らに言葉を変えた。――どうぞ、ごゆっくり、と言うしかないことが分かった。そして、注文の度に、声を掛ける。褒めるのである。彼らの自信と有能感を与えなおすのである。

――あなたはしっかりとした大人だ。毅然とした大人だ。大変なことはあるかもしれない。もう二度と会社には行きたくないのかもしれない。もう二度と家には帰りたくはないのかもしれない。もう二度と自分の布団に入り、うなされたくはないのかもしれない。もう二度と太陽を見たくはないのかもしれない。

しかし、である。それでも、大人なのである。男なのである。既にあなたはそうして乗り切ってきているではないか。あなたはできるのだ。あなたは有能なのだ。有能だからこそ、悩みはあるものなのだ。

こうしたことをメッセージするのである。そのメッセージは「どうぞ、ごゆっくり」に尽きているのである。

――あなたは有能だ。休むことだけなのだ。休めばいい。ゆっくりとすればいい。それだけが、必要なことなのだ。

そうすることで、彼らは自信を取り戻しやすくなり、その自信は「しっかりとルールを守る」という行動を呼ぶ。彼らは自分から閉店時間を気にするようになり、時間前には帰るようになった。

そうして、僕の時間には悩めるおっさんが増え、何人かはよく金をくれた。

そして、住宅地なのに宴会の予約がわんさと入るようになり、そうしたおっさんは僕の制服の隠しにチップを突っ込んでくれた。宴会が入れば一晩で数千円はチップが稼げ、一度は3万円になったこともある。ちなみに宴会でも僕は他のバイトじゃしなかった便宜を図った。これは別の機会に。ファミレスバイトでも稼ごうと思えばチップで稼げるものである。

そうする中、僕が金に汚いという噂が流れ、ちょうどレジから20万円ほどが消え、僕のせいじゃないかと疑われ、いずらくなって辞めてしまった。チップのお金はキッチンの人も含めて公平に分割したが、それでも僕がかすめとっていると疑うものなのである。稼げない人間は常に稼げる人間を詐欺師か犯罪者だと思うものである。今でも思い出す。ある日、千円しかもらえなかった日に十人で分割した際に、はっきりと彼らは僕に対して猜疑の目を向けたものだ。

そういえばニーチェが言っていたかな?――貧しいものには与えるな、奪わせるのだ、と。与えると彼らは僻むのである、と。