ブログタイムズさんよりセキスイハイムさん(www.tokyo816.jp)の蓮田工場見学会の記事広告の依頼を頂いたので、昨日は埼玉県の蓮田まで行って来た( [PR by ブログタイムズ] )。
「家」というと大工が現場で建てるものという認識があった。しかし、積水化学工業の「セキスイハイム」では、鉄骨でできた六畳ほどの大きさのボックスユニットを工場で生産し、そのユニットを現場で組み合わせることで家を建てるのである。これにより、高品質な家をプレハブを建てるよりも短い日数で建てることが可能となったとのことである。
当日の流れ
昨日はその工場生産の流れについての「社会科現場学習」のような一日となった。
近所である船橋の住宅展示場に朝9:20に集合すると観光バスが待っていた。周りを見ると小学生くらいの子供を連れた家族ばかりだ。子供がバスの周りを走り回る。子供のいない我々は自分たちが遠足気分である。「おやつはいくらまで?」とはしゃぐ。
9:30に出発したバスは途中で浦安の住宅展示場に寄り、11:15頃には埼玉県蓮田に到着。社員食堂にて、お弁当とお味噌汁を頂戴する。基本的にコーヒーやジュースなどの飲み物は各所ですぐに頂ける体制になっていた。おかげで普段あまり飲み物をとらない私はトイレが近くなった。また、託児所があるので子供が小さくても安心である。
さて、腹ごしらえが済んだところで、実際の説明会である。
最初は、ボックス型のユニットの強度を見せ付けてくれた。その六畳の鉄骨の箱を5メートルの高さまでクレーンで吊り上げ、自由落下させたのだ。私の記憶が確かならば、6畳の鉄骨のユニットの重さは1トンを超えていたはず。それを3階近い高さから地面に叩きつけるのだ。「まあ大丈夫だろう」と思いながらも、臆病な私は万が一に備えて後ろに位置し、衝撃により飛散物があっても怪我をしないように備えた。
もちろんそれは杞憂であった。落下した鉄骨のユニットはビクともしなかった。対角線の計測をしても1ミリの変化もしなかったのである。記憶があやふやだが、この強度であれば関東大震災の4倍にも耐えられると仰っていたような気がする。そして阪神大震災でセキスイハイムの住宅が倒壊した事例は一つもなかったと。少なくとも通常の地震におびえる必要はまったくないのだろう。
クレーンから自由落下で強度を見せ付けられたあとは工場見学である。巨大な工場で鉄骨のユニットが完成されていく流れをみるのである。私の受けた雑駁なイメージとしては、自動車の工場のようなものである。まず鉄骨の枠を強固に作りあげ、最後に仕様書に従い内装と外装を備えるのである。詳細は省くが、各要所にて強度と耐久性の高い技術を使用しているとの旨の説明を受けた。なんでも飛行機の製造に使うような高い電力と力を使った接合をするらしい。最後には外壁材にバーナーの炎を当て、その不燃性と断熱性をアピールしてくれた。
私は建築に不案内である。が、確かにこの設備が整えられた工場で生産されるような強度と耐久性を、個人住宅建設の現場で実現することは難しいかと思う。これなら火事も地震も怖くない。維持コストや光熱費も浮くことだろう。途中からは恋人もすっかりセキスイハイムの家に魅了されたらしく、今の家をケチにリフォームするのではなく、セキスイハイムにしたいと言い出した。
その品質もさることながら、説明自体の満足度も高かった。工場を歩きつつ、各所に設置されたディスプレイから映像が流れる。説明は無駄に長くなく、椅子も備えてある。一つ残念なことと言えば実際に動いている機械や人間を見ることができなかったことくらいだが、それは別に稼動している工場の説明会が準備してあるらしい。
こうして15時頃に終了し、バスで帰路につく。渋滞のため船橋に戻ったのは17:30であった。
家を建てることを検討しているのならば、休日の一日を費やしても十分に元が取れるのではないかと思う。
余談
さて、全くの余談なのだが、帰り道のバスの中で「風の谷のナウシカ」を流していただいた。少しこのことについて書きたい。
ナウシカを見るのは久々で、その素晴らしさに改めて驚嘆したのであるが(恋人は隣で泣いていた)、その「ナウシカのメッセージ」と「セキスイハイムの家を建てる」がかけ離れていることにある種のおもしろさを感じた。
セキスイハイムの家は堅牢な家を望むからであると予測するのだが、これは「自然を押しのける」発想が連想されやすいと言えば言えない事もないと思う。エコだ太陽光だ家中をつねに暖める床下暖房で冷え性や心臓発作のリスクが低減するなどと言えど――その素晴らしさを非難する気はさらさらないにしても――ナウシカを見ていると、こりゃあ人間のエゴだよな、という気にさせられる要素がある。
実際に私の彼女のモデルハウスを見て上がっていたテンションは一気に冷めたし、周囲の子供も「新しい家」で騒いでいたのが、途中のトイレ休憩では「ナウシカ、ナウシカ」と言いながら走っている始末であり、恐らくはその両親もナウシカを見て何か消費や生産とは逆のレイヤーの問題意識を感じていたのではないかと予測する。
映画が終了しエンディングの音楽までが流れ終わった後の、反省に満ちた静寂に包まれたバスの中があまりに滑稽であり、私は失笑する自分に耐えるのに必死だった。私がセキスイハイムの人間ならば宮崎映画はやめることは確かだ。
しかし、だからディズニーを流せばいいとか言うわけでもない。ナウシカでいいと思う。所詮、物語はビジネスよりも弱い。勝ち負けで言えば常に負けるものである。我々は ナイーヴな良心の声など押しつぶし、火と鉄の力に酔いしれ続けていくのである。