2006-11-22

業が深いという感覚

最近、業が深いなぁ、と感じる。

業なんて言葉は、古くさい、線香くさい、迷信の盲信だとしか感じていなかった言葉だというのに。

なんだか、つくづく自分は業が深い、と感じてしまう。


これは最近の仏教マイブームの影響ではない [1]。

業が深いという言葉、その言葉自体に共感しているんだと思う、

もちろん、その言葉には仏教の影響が色濃く残ってはいる、しかし、その「仏教」というやつも、日本でかなり変化してしまった日本仏教であり、私が感じる「業が深い」という感覚は釈迦のカルマとほとんど関係ない。

この日本の感覚に共感しちゃうあたりが、いかにもふけたんだな、俺、という気分である。


この「業が深い」という言葉で何を俺は感じているんだろう、

俺は罪深いんだな、という感じかもしれない、

過去の罪を今、償っているんだろう、みたいな、 俺は、なんだか、罪深い、というか、罪深かったな、という感じはある。


でも、それ以上に、しあわせなんだろうなという気分もある、

「業が深い」という言葉を使うときは、どちらかというとネガティヴなことがあったときだ、普通に考えると嫌な事があった時に「業が深い」と感じる、ただ、その時の気分はどちらかというとしあわせだ。

なぜだろう、よくわからん、

しかし、業が深いんだな、俺は、と感じて、なんだか前向きになる、不思議なものだ。


実はこの文章を書きながら、ブラウザが落ちた、そして文章がとんだ。

「ははは」と笑ってしまい「業が深いんだな」と感じる、

頭に来るとか腹が立つとかいう感じはなく、この「業が深いんだな」という感覚は、しみじみとしたしあわせの感覚に近い。

そう、しみじみとし、しあわせ、あきら、という言葉がふさわしいかもしれない。


ただ、こういうことを感じて、こういう運命にあいながら、俺は生きているんだな、という感覚は、しあわ、な感覚だ。

そういうことを、どうにかして言葉にしておきたかった。

notes

[1] 釈迦の言うカルマの意味は最近ある程度分かるようになった. 分かるが, それは結局, 通常の人間には分からないものだと思う.

三業の身口意の業は分かるし, それは意業を除けばある意味常識的だし, 意業にしたって, 心ある人(って意味不明な言葉だが)には分かる法則だろう.

しかし, 前世や先祖の業というような, 三業以外の業というのは, 通常の人間には分からない, ということははっきりしている. なぜなら, 普通の人間は前世や先祖との因果の連鎖を実感として感じないだろうから.

だから, 俺のこの「俺は業が深いんだなぁ」という感覚は仏教の影響ではない. 前世とか, 先祖とかそいういうのは関係ない. というか, そもそも釈迦が輪廻転生を説いたという考え自体に俺は反対で, 釈迦は輪廻はないと言ったような気がする. まあ, 気がするだけで, どうという訳はないが.