2006-11-11

<いいもの>としての神

俺はね、人は宗教を信じていた方がいいと思うんだよ。少なくとも近くにいる人とは、最低限の理解をし合える形で、<正しいなにか>を信じ合えていることは良いことだと思うんだ。

別に誰がどんな神さまを信じていてもいい。皆が<いいもの>を感じていることが大切なんだ。俺も人の神さまを「うん、いいね」 と言うだろうし、俺も人に 「うん、いいね」 と言われると嬉しいと思う。

他の人が他の人なりに <いいもの>を感じていて、それが自然で、「そうだねー」って感じで神を信じていたとしたら、それでいいんだ。

しかし、俺が出会った日本人の95%以上は真や善や美について語り得ぬとして笑い飛ばす。これが俺は哀しい。感情的でごめん。俺はとても残念なんだよ。




<神=いいもの> を信じられない人々が信じるものは、金か暴力しかないと思うんだよ。どうだろう? 「相対主義」とか「人それぞれ」とか「誰にも迷惑かけなきゃいいでしょー」とか言ってると、<いいもの>を語ることを忘れてしまうと、金か暴力でしか考えられない人になると思うんだよ。

って、ちょっと悲観的すぎかな?

もちろん、これは極論で、通常の会話ではまだ<いいもの>という価値は残っていてある程度の説得力があるからさほどの問題はないとは思うよ。

でもね、生きることへの考えや自分の生き方、自分が美しいと思うもの、為しとげたいと思うことを本当に語ろうと思うと、金か暴力以外に説得力を感じない人に何も言えないんだ。

だからね、「神」という言葉が強力な力を持っていたら、どんなに素晴しいだろう、と考えずにはいられなかったんだよ。はは。




ところで、日本人の中に神の概念はまだ残っている。

いいことがあると「神さまがしてくれたんだ」とか「神さまのおかげだね」くらいは「宗教臭くてキモイ」とか言われるほどではないと思う。嫌なことがあった時に「神さまがくれた試練だと思って成長させてもらう」とかもオーケーな範囲じゃないかと思う。

ただし、あくまでオーケーなだけで、このレヴェルでは説得力は無い。「成長させるために神さまがくれた試練だと思って努力しなさい」と言うと「キモイ」と言われると思う。かなり前向きな人じゃないと「そうだね」なんて言わないよ。

だから、こういう考えが皆で「うん、やっぱり神さまいるよ。だから頑張ろう」とかになると、ちゃんと宗教になるんだと思う。

これがいいな、と思うんだ。




逆に、共同体に<神>がないと実際に困ると思うんだ。正義とか善とかも無い。すると集団の意思決定は金と暴力に頼るしかなくなる。衆愚化だね。これは困るよ。

「さあ、どうしよう」
「俺はこれがいいと思う」
「私はこれ」
「いや、それはだめだよ。だって……」
「うるさいわね。なんで? 人の勝手でしょ。あなたの論理を言わないでよ」
「いや、だって、それは……」
「うるさいわよ。あなたがどう思おうと私はこう思うの」