漱石の絶筆、未完の大作、『明暗』との出会いは遠ざかっていた興奮との再会であった。そして、漱石のいう禅的理想「自在」も私をひきつけた。
これは何か? 明暗には何かがある。まずドストエフスキーがある。しかし、ドストの饒舌さは日本人には現実味が薄いので、漱石はそれをいかにも日本人的な仄めかしやトボケの応酬として、ことなるエゴのぶつかり合いと、その雪崩を打つような破局へのダンスを描いてゆく。見事である。『こころ』で感じた女性描写の「うそ臭さ」は微塵もない。
そんな漱石もニーチェを読んでいた。そして彼らなりに吸収し、批判をしていた。
自らの文化と伝統への自信が彼らにはあった。彼らは西洋に遊べど、決して徒らな追従にふけることはなかった。その時の日本にとって必要なものは学び、必要でないことは堂々と無視したのである。
漱石による『ツァラトゥストラ』第三部「新旧の表」への書き込みから、そのことが端的にうかがえる。
世界中で最大の幸福者とは、必然が自由そのものとなっているような人である。この自在の境地こそ数多の禅僧や儒学の徒が行じてきた修行の究極目標でもある。彼らの到達した完成の境地はこれまで西洋の学徒が達し得たいかなる境地よりも更に高い。キリスト教徒にはかかる自由なるものがあるということを夢にも考えることができなかったのである。キリスト教徒は多数者の、弱者の、女性の、また奴隷や救いようのない人間たちのための宗教にほかならない。にもかかわらず彼らはこれこそ文明開化の民の奉ずる唯一の宗教なりと称する。彼らのうぬぼれはまさに限度を知らぬもののようである……
この自在の境地。これこそまさしく私も求めたものである。