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ここんとこ読んだ仏教関係書物7冊へのコメント
中村元 (1912-1999)『龍樹』 (2002、講談社学術文庫)
★ 「空=縁起=中道」 → 八不
「空観」とは「諸事象・諸事物が相互依存によってあるので、自立存在はない」とする考え方。ちなみに、この相互依存によるあり方をナーガルジュナは「縁起する」と言ったらしい。そして、それを「有る」とも「無い」とも言えないので「中道」とも呼ぶ。彼の主張は「八不」である。それは不生、不滅、不去、不来、不常、不断、不一、不異である。
中村元『論理の構造』(上下、2000、青土社)
アリストテレス、西洋現代論理とインド論理を主眼に日本や中国の論理を整理。知覚、概念、カテゴリー、判断、推理について人類はどう考えたのか概観できる。力作。
学説とか興味ない最近の俺でも、その枠組みを概観できたのはよかったなー、とか思った。それなら目次みるだけでよかったかな?
黒崎宏(1928-)『純粋仏教: セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える』 (2005、春秋社)
★「純粋仏教」=「八不」→「一重の原理」→「自受用三昧」
一重の原理とは「倒れたらもう倒れられない(立ち上がらないと)」「去ったらもう去れない(来ないと)」というように、同じ行為は二重にできないという原理。これは龍樹の八不から抽出できる原理である。
これと、セクストスを経由したピュロンの懐疑主義による、知らないことの不安を脱するために思考がなされるが、思考は結局、全ての判断は保留せざるを得ず、人は不可知であることにゆきつく、そして思考を保留した時に(なお知ることを求めているにしても)ある平静に辿り着く、というような考えを組み合わせ、受け入れることしかない、苦しみも受け入れればもう苦しめないというような自受用三昧を提唱。
ちなみに懐疑論が説く、思考が判断留保にゆきつく他ない、ということを説得する議論の論理展開は強力説得的で、けっこう興味深い。(とか言いながら俺はもう論理とか哲学に興味がない)
黒崎は純粋仏教=自受用三昧と述べ、十二因縁や四諦や因果応報も否定している。
宮本啓一 (1948-) 『ブッダが考えたこと: これが最初の仏教だ』 (2004、春秋社)
★ 最初の仏教= 苦楽中道
ブッダの説の中心は中道であり、中道とは苦楽中道に他ならないと主張。
欲→行為→苦しみ
ブッダは出家当初はヨーガ行者の下で瞑想を修め、その後、苦行を積んだ。しかしながら、瞑想の思考停止は一時的なものであり、苦行による欲望の押さえ込みも限度があることに気が付く。
生存欲 → 欲 → 行為 → 苦しみ
そこで彼は思考によって欲が生じるのは根本的な「生存欲」によるのだとブッダは気が付いて悟ったのだと著者は考える。十二因縁説の無明を生存欲と考え、これをのりこえるために智恵をつけるのがブッダの教えと著者は述べている。
また、仏教誕生の地インドの思考を概観し、仏教に輪廻思想がなかったとする考えを批判。
俺としては生存欲と欲は同じ項目だと思うんだけどなぁ……
宮本啓一『インド哲学七つの難問』(2002、講談社メチエ)
仏教の他にもインド6派哲学を概説しつつ、存在、自己、知識、因果などを、説明している。
ま、学派の学説とか哲学問題とか最近の俺あんま興味ないから……
宮本啓一『仏教かく始まりき: パーリ仏典「大品」を読む』(2005、春秋社)
大品とはマハーヴァッガのことで。マハーヴァッガは律蔵の一つで、律蔵は出家僧の規律などについて書いてあるものを意味する。
保坂俊司 (1956-) 『仏教とヨーガ』(2004、東京書籍)
ヨーガは、バラモン教やヒンズー教はもとより仏教、禅などの基礎となっており、日本にもヨーガの伝統は息づいているという話。そして、現在の日本の葬式仏教、カルトな某学会みたいな仏教、健康美容ヨーガ、オームみたいな怪しいヨーガを乗り越えて、本当に心身を共に鍛える仏教ヨーガを作り上げよう、という主張。
「宗教」という用語や概念の問題から始まり、様々なヨーガの歴史、学説なんかを概説。仏教とヨーガの関係も検証してます。