野口悠紀雄氏の本を取り上げるのは二回目です。前回は「押し出しファイリング」を提唱していた「超」整理法でした。それは「整理しないことによって整理する」というお手軽かつ斬新なものでした。
佐藤優と朝鮮の専門家・鈴木琢磨の対談『情報力』を立ち読みしました。情報の収集と分析について参考になりました。
佐藤の情報整理は簡単なもので、資料を時系列に段ボールに入れて、それに日付を書くというだけのものでした。
段ボールはミカン箱で、特に分類もなく資料を放り込むのだということです。箱がいっぱいになったら日付を書いてしまうのだそうです。一年間に5、6箱になるそうで、その程度であれば頭で整理できるというわけです。検索には日記も役立つらしいです。
大事なのは、整理の時間を減らすことでした。時間と人間を軸にして記憶を補助するのが一番効率的なのでしょう。
細かいメモは取らないということです。取ったとしてもキーワードや固有名詞くらいなそうです。メモを取らないことで自分の記憶だけが頼りになります。メモがあったとしても、記憶に残らないような情報は役に立たないということなのでしょう。
面白いと思ったのは、記憶を引き出すための「トリガー」(引き金)を大切にしていたことです。北朝鮮やロシアで買った特徴的なお土産を見れば、それが引き金になり、その時の記憶をすべて引き出せるのだそうです。
実際の記憶のないメモ帳のメモなどは意味がないのです。自分の記憶を引き出すためのトリガーが一つあればいいのです。
トリガーといえば、苫米地の変性意識とアンカーとトリガーを意識した洗脳が連想されます。無意識の膨大な情報を引き出すには、こうした方法が有効なのでしょう。
1800年生まれの著者が語る『自分を鍛える』は、古めかしい精神が好きな人にはたまらない本だと思う。人格とかいう古くさい言葉にピンとくる人にとってはちょうどよいと思う。私の中学生の頃からの愛読書でもある。
世の中には様々な自己啓発書がある。テンションを上げたいとき、誰かに叱って欲しいとき、人生に迷っている時などに、そうした本が手にとられる。
コンピュータの小技はさておき、根本的には人間の暮らしや営みは変わらないので、人間関係や自己管理の問題に全ては集約してゆく。そして最終的には「優れた人格」を形成するということになってゆき、よい人格とは「よい習慣」を身につけるということになる。
トッドの唱える人物像は、以下のような言葉に端的に表われている。
何事にせよ頭角を表す人物というのは、最初に慎重に検討を重ね、それからしっかりと決意を固めるや、断固たる忍耐心を持っておのれの目標に邁進し、脆弱な精神力の持ち主ならくじけてしまうようなちょっとした難問にも、少しも動揺しない人間だけである。
何よりもまずいのは、優柔不断が習慣になってしまうことである。[……] 自分の進む道は慎重に、しかもきっぱりと選ぶことである。そしていったん選んだら、何が何でもそれに食らいついて離れないことだ。(p.58)
目標の持ちずらい時代にピンと来にくい言葉だが、言わんとしていることはもっともだと思う。人間は努力すれば相当のことができるだろうが、あれこれやっていては何も出来ない。だから、一つのことを決める必要がある。しかし、そんな人生の目標なんてものはそうそうやって来ないから難しい。
原題は『Todd's Student's Manual Self-Improvement』というだけあって、学生用の修養書なのだと思う。だから、特に勉強の面での指導が目立つ。勉強によって優れた頭脳を養うことが大切というわけである。トッドのいう優れた頭脳とは以下のようなものである。
徹底的に鍛え抜かれた頭脳というのは、ふとしたはずみで調子よく働いたり、大きな能力を発揮したりする頭脳ではなく、一定の時間があれ ば必ず一定の成果を引き出す態勢が常に整っている頭脳のことである。……刺激がないと働かないような頭脳の持ち主は、その刺激を待っていなければならず、生涯ほとんど何一つ達成することはできない。(p.33)
こうした粘り強さと徹底とがトッドの説く姿勢である。勉強の意味とは何かという質問に、こうした自己管理能力を向上させることにあると答えることもできるだろう。
何事も入念にやることが大切という姿勢は以下のように語られる。
問題を調べる場合、おおざっぱな概念だけをつかんでおこうという態度で調べてはいけない。急いでいるとしても、徹底的に調べられるまで待つべきだ。
重要性の大小にかかわらず、たとえそれが何であろうと、少なくとも調べる価値があるのなら徹底的に調べるべきである──二度と調べる必要のないくらいに。そうすれば、いつまたその問題が持ち上がっても、考えは決まっているのであわてふためかないですむ。(p.71)
こうした人物観の下、よい習慣をつけることの大切さを説く。中でも時間を守ることに重きが置かれる。
同じこと、同じ仕事を、毎日同じ時間に繰り返すようにするのである。(p.48)
これがよい習慣を身につける近道なのだろう。そして、計画を立てて努力する大切さを説く。
計画は前の晩にじっくり練っておき、朝起きてもう一度確認したら、すぐに実行に移さなければならない。前もって計画を立てておくことで 、そうしない場合よりも、一日に驚くほど多くのことが成し遂げられるのである。(p.49)
久々にこの本を手にとって思うのは、ライフハックだなあ、という感覚である。目標を達成するには入念に、徹底的に、計画的にやっていくべきだというのはあまりにもっとも過ぎる。目標を見つけた人は言われなくとも入念に、徹底的に、計画的にやってゆくことだろう。
問題は「目標」を見つけることである。頑張る方法や成し遂げる方法というのは、このトッドの方法でいいのだろう。しかし、「でも、なんでそんなに頑張るの?」という問いが残ってしまう。
最後の章で、トッドは正直にこの「なぜ?」に答えようとする。目標とは何か? 快楽か? 富? 人からの賞賛か? 結局トッドは、こうしたことはことごとく虚しいと答えてしまう。トッドは正直な男なのだと思う。一般的に目標となるものを掲げ、それを否定した上で更に、彼は目標について語る。
「不滅の魂は何か大きなものを求めてふくらんでいかなければならない。うわべだけ光るものか、あるいは内から本当に光を発するものを──人の世の称賛か、あるいは神の称賛を──求めて。」
われわれが魂を「ふくらませて」目ざさねばならないこの「何か大きなもの」とは、本当に「大きなもの」なのかもしれないし、あるいはわれわれが勝手に「大きなもの」と思い込んでいるだけにすぎないのかもしれない。しかし、いずれにしても、何を本当に人生の目標にすべきであるかは、たいへんむずかしい問題であるということである。そして、キリスト教の精神や教えは、人がその能力を発揮する目標を持たずに生きよ、とはけっして言っていないということである。
彼にとっては、めざすもの、求めるものが無くてはならないのだろう。「不滅の魂は何か大きなものを求めてふくらんでいかなければならない」というのは滑稽でもある。しかし、その求めるものは実に疑わしいことも彼は意識的である。そして、最後に彼はこう語り、この本を終わらせる。
私が願うのは、計画を立て目標をめざして進む間は、常に満ち足りて安らかな気持ちを保ち、自分は無為に生きているのではないのだとはっきり自覚するようであってほしいということだ。そうすれば、魂は崇高で本当に質の高いものへと成長し、あなたが神の清らかな光に照らされた運命をたどっていることがわかるのである。
彼の口からは慈悲や愛、平和という言葉が最後まで出てこない。これが不思議といえば不思議なのだが、もしかしたら、そうしたものは求めてはあらわれないことに彼が気づいているからこそ、語られない言葉であったのかもしれない。
この本の冒頭で、成功や頭脳について、彼はこう語り起こしている。
頭に飾りとしてつけた一本の新しい羽根がうれしくて小躍りしている裸のインディアンと、ニュートンやボイルなどの頭脳では、雲泥の差がある。では、その違いは、いったい何から生じるのか。(p.17)
いくらかのニュートンについてに暗い印象のある人間にとっては、この語り起こしそのものが、答となっているとも思える。
「本が好き」から頂いた本。読んで戸惑う。人間とは「自らの死」にまで、主体性を発揮するものなのだろうかと。
縁の遠い人が、本書に書かれていたような理由で死んだ。一昨年の夏の終わりだったか。自殺と聞き、その「死因」となる嫌な話を聞きたくないなと眉を顰めたが、死因はあっけらかんとしたものであった。――人生の楽しみは十分に味わった。後は老けるだけで、自分も嫌だし、人にも迷惑をかける。だから、まだしっかりとしたうちに死にたい。こういう書き置きが、首を吊った自室の机に置かれていたらしい。享年は七十に届くか届かぬかという頃であった。
健康的にも経済的にも人間関係的にも問題はなかったという。話に陰は微塵もない。からりとしている。それ故であろうか、ご家族の立ち直りも早かったらしい。この話を伝えた私の恋人もその死を是とする。このあっけらかんとした感じに、気持ちの悪さを私ははっきりと感じた。が、元より会ったこともない人の話である。保留にして胸の底に沈めた。人の死に対し、是非を論じても詮無きこととして。
そうこうしている内に、新聞の広告で本書を度々目にした。興味を持っていたところに「本が好き」の献本リストにあがっているのを見つけた。これを機会にと思って送ってもらった。しかし、私にとってはいい本ではなかった。
まず私個人の視点として「事後的な死の肯定」と「事前の死の推奨」は異なることを述べておきたい。
私は個人的に自殺してしまった人に対しては敬意を表することに決めている。自らの死に向き合い、覚悟を決め、周囲の迷惑の少い方法を選んで逝った人には、事後的な死の肯定をする者である。 ―― ですから、自決した著者には素晴しい死に様であったと敬意を表します。また、父であり夫でもあった著者の突然の死を受け止めているご家族の方にも賛嘆の言葉を送ります。私は著者の個人的・主体的判断に対し、事後的に難癖を付けようとするものではございません。これだけはくれぐれも誤解なきようお願い申し上げます。
さて、この本は一人の個人の「遺書」でもあるが、同時に一つの「自殺肯定論」である。つまり「事前の死の推奨」である。一般論として「老人道」に殉した自死を認め、それどころか推奨する本である。結論から言えば、こうした性格の本書に対しては、私は反対する言葉しか出てこなかった。
たぶん本書が以下のような本だったら私も好意的だったのだと思う。――ありがたいことに私は家族にも健康にも仕事にも恵まれ、存分に人生を謳歌させてもらった。何度も「ああ、もう死んでもいいなあ」という時があった程だ。それでおこがましいんだけど、この歳になると人生に対しても、自分に対しても「高が知れたもの」と思えて来てね。我侭を言って申し訳ないが、後は自分が幸せな内に、つまり自分がしっかりした内に、人様に迷惑を掛ける前に、自分でケリを付けたいんだ。それに病気も老いもやっぱり怖くてね。僕には現代延命医学によって限界まで「生命維持」されるのが「人間らしい」とはとても思えないんだ。そうなる前に死にたいんだよ。僕の最後の我侭を赦してくれ――
恐らく、私の遠い縁の人も、そして本書の著者も、心情としてはこうした所なのではないのだろうか。こうした「遺書」なら私は事後的な死の肯定をした上で、延命医療と安楽死・尊厳死の問題について考え、技術に対し生命倫理思想が追いついておらず、そのままでは「人間らしい死」を遂げられぬ時代の犠牲者として死を悼むことができたと思う。
ただし、事前的な死の肯定を否定する私は、そういう人に対しても、残酷かつ無責任にも「駄目だ」「死ぬな」と言うのであり、そして、その人の苦しむのを見たり、立ち直るのを見たり、結局は自殺したりするのを見るのであろうが。
私が理解し難いのは本書の「老人道」という観念である。これについては私は正直よく分からない。筆者によれば、官僚的幕藩体制の中で自尊心と主体性を維持すべく「死にたがり」になっているのが武士道らしく、老人道とはこの武士道に似たものであり、武士道的切腹と同じく、「自分らしさと自尊心と主体性」を維持すべく行われる自決であるということだ。
この「自決」は、その他の「自殺」と老人道的自死は峻別される。だから筆者は自分の死が経済的・健康的・人間関係的な要素がないことを強く重視する。あくまで自らの老人道的な主体性が侵された時に、死をもって応じるという姿勢のようである。
老人道を生きる人間は、「病気・老化・自然死」というどうしようもない体制の中で、「そんなものに翻弄されてたまるか!」という気概をもって「自分らしさと自尊心と主体性」を維持し続け、最後までその気概を維持し続けているという証のために死んで行くのである。
それだけでは観念的な自殺としか思えないのだが、筆者にはもう一つ老人道には必要な要素があるという。それは人生や自分の高を、その極みにおいて体得しているということである。つまり、「人生の高」「自分自身の高」も体で納得する必要があり、青年期にありがちな頭で観念的に理解しているだけでは駄目なのだと説く。そこで始めて命を捨てられるという訳か。老人となるまで生き抜いて初めて、病老死に苦しむ前に「主体性」に殉じる権利もあるというところか。
思想が前向きであるのはよいことだと思う。しかし、死を事前に肯定する思想はあっけらかんとしてて、私にとっては気持ちのよいものではなかった。
殊に「厭世的」な考えに対する批判には絶句した。厭世的な物言いは、苦しみつつもなお生きることに向かうのであり、生を肯定する。死を勧めはしない(例外はあるのを知っているが)。
よく分からないが、投げ込まれて、打ちのめされてゆきつつも、主体性を発揮してゆくのが人生ではないのだろうか。最終的に病老死苦すら肯定できるようになるような気がする。誰だって、どうしようもない事態に足をすくわれ、それでも猶、それを主体的に引き受け、生きてゆくのではないのだろうか。美しくはないが、それでもそうして醜く、無益に、苦しみながら生きてゆくのではなかろうか。
本当に生きられない時には体が死んでくれるだろう。自分で体を殺すのは結局は観念による肉体の殺害であると思う。人間は「自らの死」にまで主体性を発揮する必要はあるのだろうか。それは結果として殺してしまった場合には仕方がないにしても、殺すことは殺すことであり、赦すにしても、許すことはない。
以下の点は示唆的だった。

私は所謂ジャンル物をあまり読まない。だから恥ずかしいことにラヴクラフトという名前すらしらなかった。クトゥルー神話という言葉を聞いたことすらなかった。
こんな人間が本書についてコメントをするのは間違っていると思う。しかし、読んだ以上、思うことがあり書きたくなることがあるものだ。一つの怪奇幻想短編集を読んだものとして、思ったことを少々。
まず、重要なことは、本書がラヴクラフトの作品を収めたものではないということ。彼の添削や共作よりなる短編が収められている。
怪奇幻想というものはあまり読まないが、それでも面白く読ませてもらった。特に面白いと感じたのはC・M・エディ・ジュニアの「幽霊を喰らうもの」と「最愛の死者」、それにZ・ビショップの「メデュサの髪」だった。怪奇幻想を可能にする逸話や因縁、あるいはその土地に住む人の思いや歴史が効果的に語られ、怪奇幻想の世界に迷い込む主人公の恐怖が描写されている。
こうしたものを読んで、そもそもホラーとか怪談とか謂われるジャンルについても思うところがあった。
ホラーを支えるものはリアリティである。ありそうも無いことをいかにもありそうに語ることが勝負である。そのリアリティーを支える重要な要素は、場の空気だと感じた。どの短編も「場所」に敏感であり、場に無頓着な描写は面白くない。
ホラーは常にありえるものではない。だからこそ、「その場だからこそ」が求められる。その土地だったからこそ、その歴史があったからこそ、その人々の思いがあったからこそ、その因縁があったからこそ、その場所で「ありえないもの」がさもありなんと感じさせる。
なぜ、人は怖いものを見たいのだろうか。ありえないものに出会いたいのだろうか。
ストレスがないはずのものを要請するという考えがある。ジレンマに陥ったとき、絶望の淵に沈んだとき、聞こえないはずの声が聞こえる経験をする人がいる。ストレスがある一定の閾値を越えると、それでも生きねばならないことが、幻聴を要請するということもあるのかもしれない。ある人は神に触れ、ある人は悪魔と戦う。
そうした幻聴や幻視はある種の防衛だとも言われる。人は選びたくない状況でも生きるためには選ばねばならないときがある。そうしたとき、神の声や悪魔の囁きは必要なのだろう。現実そのものが受け入れがたいとき、ある種のファンタジーに生きることが、生を救うということもあるのかもしれない。
「ありえないもの」を現出することによって守るという防衛機能を備えた人間として、怖いもの見たさは本質的なのかもしれない。「飲む打つ買う」などの陶酔に身を任せたり、芸術や学術の高揚に酔いしれたり、異国を旅をしたりする欲求が人にはある。これは「ありえないもの」を生み出す能力が使われないままになっている不満を解消しているのかもしれない。持っている機能を使わないと欲求不満に陥る。
想像力はある種の怪奇に到達するのかもしれない。霊が登場する文学は多い。そうした物の怪に出会うことが何かしらの意味を持っている。また信仰の人もそうした何かしらのものに出会っているのだと思う。
ただ、今回の本では、そうした物の怪に出会った主人公が、そうした経験によってどうなったのかが分からない。これは短編だから仕方ないのかもしれないが、残念である。物の怪というある意味での人間の究極にぶつかった人間は、そういうものにぶつかるだけの因縁があるような気がする。だから、そうした因縁までも含めて描いてある作品を読みたいと思う。

本が好きから頂いた本の書評。
全米屈指の直観医療者によって、どうすれば健康で幸福な人生を手に入れるのかについて、スピリチュアルなエピソードが綴られている。
私は直観医療という言葉を知らなかった。帯によれば、直観医療(Medical Intuitive)とは「エネルギーの場をみることで病の状態とその原因を読み取ること」らしい。
直観医療については訳者あとがきに詳しい。
この言葉をはじめて世界的に有名にしたのはアメリカ人女性、キャロライン・メイスである。(……)精神的な不調におちいったことがきっかけで人々の病の原因を直感的に透視できるようになった。一九八四年頃から、ノーマ・シーリー博士という神経外科医とタッグを組んで直観医療の技術を磨き、直観医療の科学というものを築きあげていった。その結果が 『健康の創造』 と言う本になって結実し、世界的な評価を得ることになる。
一九九二年、二人は直観医療の教育プログラムをつくり、直観医療者の育成をはじめた。その結果、現在では一万人以上の直観医療者が活動していると言われている。一九九六年、キャロラインは長年の研究成果を 『七つのチャクラ』という本にして出版し、直観医療という言葉を世界的に広める役割を果たした。
ただし、本書の著者クリステル・ナニはキャロラインのプログラムとは関係なく子供の頃から直観できたらしいので、あまり関係はないのかもしれない。
原題が『Diary of a Medical Intuitive(直観医療日記)』ということなので、全体としては逸話の集成である。大きく分けて、著者自身が直観医療の能力に気づいた話や、看護婦から直観医療者になる著者自身のエピソードと、個々の患者にたいするアプローチを具体的に綴った話の二種類がある。私のようなタイプには信じがたい話が多いが、その中で語られる生きることに対するメッセージは確かにと頷かせるものがある。
本書は、直観医療に興味を持った人が具体的なアプローチの実態を知ることができると思う。また、個々のセッションでのエピソードは示唆的なので、そこから「病をよせつけない」ためのヒントを得られると思う。
中でも有益と直観医療者が優秀でないことを示す六つの証拠が興味深いのでメモしておく。
日本が世界に誇るスーパーコンピュータ「地球シミュレータ」のセンター長を務める筆者による、シミュレーション技術、更には科学そのものについての概説。
昔、世界を記述する方程式が発見されるとかされないとか話したものだった。それが最近では、アルゴリズムになっているのだと感じた。
筆者は、科学がかつて何であり、これからはこうなってゆくという未来を語る。古代の祈りや占いからの「知性」の起こりから、科学の発達を説く。そして、現在の科学の要素還元パラダイムの限界と、ホリスティック・パラダイムへの必要性を説いてゆく。
次に、そうしたホリスティック・パラダイムを実現するために必要なコンピュータ・シミュレーションの歴史を概観する。地球コンピュータが誕生するまでの経緯も綴られる。
ポイントとしては、従来の要素還元型の科学では「落し物」があり、コンピュータ・シミュレーションなら全てを扱えると言うわけである。人類は、未来を予測する技術を手に入れるというわけである。そうなると当然に人間の認識も変わると筆者は訴える。
コンピュートニク [地球シミュレータのあだ名] が二十一世紀の科学技術のあり方、ひいては、人間の生き方・考え方や価値判断(パラダイム)までも、大きく変える可能性をもっているということである。(p.17)
こうして現れる次のパラダイムを「シミュレーション文化」と呼ぶ。シミュレーションによって未来が確実に予測できる時代の文化である。
初期値の入手や有効なアルゴリズムの発見、情報の解像度と計算能力などによる問題はさておき(既にかなり高い精度で地球規模の現象を予測できているらしい)、こうした「シミュレーション文化」とは文系的にはなんなのだろうか。そうした時代の人間はどうなるのだろうか。筆者はシミュレーションが個人の生活にも関係すると述べている。
筆者が今後期待するのは、個人というレベルでもシミュレーションが活用されるようになる未来である。あたかもアドベンチャーゲームやシミュレーションゲームを楽しむかのように、自分自身の未来に夢をたくして行える、真剣なる人生の上でのシミュレーション。(……)「生き方」といったものをシミュレートするようになる世界。そんな「シミュレーション文化」に支えられた時代がくる物と、信じているのである。
シミュレーションは既に環境問題など政策決定に影響を与えているのがテレビを見ていると感じる。今後そうした機会は増えていきそうだ。こうした時代を生きることを考える上でも、本書は手にとって見るとよいと思う。

罪と罰のストーリーと構成についてメモしてみた。
罪と罰は三本の筋からなると思う。
一つは元大学生ラスコーリニコフによる老婆と少女の殺害から自白までの物語であり、警察官のザミョートフや予備判事ポリフォーリーが中心的に関わりつつも、登場人物の殆どが関わる中心的な筋である。
二つ目はラスコーリニコフの妹ドゥーニャが二人の男に狙われるた末にラスコーリニコフの親友・ラズーミヒンと結ばれる物語である。
彼女を狙う一人目の男はルージンという弁護士であり、ドゥーニャは婚約してペテルブルグにやってくるが、次第にルージンの下劣さが明らかとなり、彼の目論見は悉く失敗し婚約は破棄される。
二人目は彼女が以前に家庭教師をしていた先の主人・スヴィドリガイロフであり、彼は妻を毒殺し彼女を追ってペテルブルグにやってくる。彼は彼女の愛を掴めぬと諦めるとピストルで自殺した。
最後は破滅する一家を娼婦となり支えるソーニャの物語である。
アル中である父マルメラードフは、十八歳の娘・ソーニャを娼婦にしても呑み続け、馬車の事故で死亡する。その事故の現場に遭遇したラスコーリニコフは、以前に飲み屋で会話した事もあり、残された一家に便宜を図り、その後ソーニャにひかれてゆく。
葬式では騒動が起こりそれが切っ掛けで妻・カチェリーナは発狂し、死んでしまう。マルメラードフの葬式ではルージン(マルメラードフ一家のアパートに住んでいた)の陰謀も描かれ、陰謀の失敗をもってルージンは再起不能となる。
結局、スヴィドリガイロフ(ソーニャのアパートに住んでいた)の便宜で子供は孤児院に入り、ソーニャとラスコーリニコフは結ばれてゆく。
こうした三つのストーリは分離したままではなく、ラスコーリニコフのソーニャへの自白により、ソーニャの物語はラスコーリニコフの犯罪の物語に組み込まれてゆき、また、その二人の会話を聞いたスヴィドリガイロフの介入によりドゥーニャの物語もラスコーリニコフの物語へと強く繋がってゆく。
このストーリが、以下の六部構成で語られてゆく。
第一部は導入であり基本的な登場人物とその事情が紹介され、最後に殺害が行われラスコーリニコフの犯罪の物語がスタートする。
第二部では、ラスコーリニコフの物語が進展してゆき、最後にマルメラードフの死によってソーニャの物語も始動する。
第三部ではドゥーニャと母プリヘーリヤの登場によって彼女の物語が急激に始動する。
第四部では
第五部ではマルメラードフの葬式からカチェリーナの死までが描かれる。
第六部は、
最近、また『罪と罰』を読んでいる。もう何度目だか分からないがこの本は読むたびに新しい発見がある。本当に腰骨の芯から痺れさせる本だ。
ドストエフスキーの凄いところは小学生でも面白いところだと思う。特に『罪と罰』はその冗長な語りが読書速度の遅い小学生にはつらいにしても、それぞれの込み入った事情を抱える感情的・知性的に極端な登場人物が演じる緊迫した各場面が、入念に編み上げられているのだから、細かいところは何も分からぬとも、筋の面白さ一本で面白く読めてしまう。
なにせ主人公はばりばりニートな引きこもりで、やばい思想を頭に一杯詰め込んで婆さんと娘を斧で打ち殺し、その後は生意気に警察とデスノート状態の問答をするし、飲み屋で会うおっさんは酒で身を滅ぼし、娘を売春婦にしてもなお呑み続けて(しかもその娘の金で)、肺病病みで精神もきちゃってる奥さんと子供三人残して馬に蹴られて死んでしまって、奥さんは葬式の日に気が違って橋で子供を踊らせてそのまま血を吐いて死んでしまうし、主人公の妹は勤め先の主人にセクハラされて変な噂立てられて、貧さ故にナルナル自己チューな男に嫁ごうとしてるし、んでもってそのセクハラ親父は奥さんバラして、彼女に言い寄ってダメんなるとピストルで自殺しちゃうし……ってこんなめちゃくちゃな状況がいっせえのせ!でぶわって破裂して雪崩を打つように物語は進んでゆくわけで、まあ、もう、ひどいったらありゃしない。それでいてエログロなしなのでお子様も安心というわけである。
小学生の僕は「こりゃねえだろ」と思って読んだという記録がある。当時の読後感によれば、面白かったが実感がないというようなことが汚い字で書いてある。
その面白かったというのも、どちらかというとコメディーとして読んだというような印象である。つまり「普通なら、事態がこんなに酷くなるわけないけど、もしも、こんな異常な人が集まって、事態が酷くなっていけば、見ている分には面白い」というような醒めた視点である。
いま思えば残酷な物言いだが、子供というものは現実がまさに残酷であることを知らないから、極端に残酷なことも言えるのだとぞっとする。ちなみに私は幼い頃から残酷な物言いをする人間だった。私のような子供は『罪と罰』を笑って読んでしまうのである。
そんな私でも歳を重ねるにつれ、ドスト氏の小説は実感を持って読めるようになる。後に「熱病のような目つき」を見ることになるだろうし、意地の張り合いで崩壊してゆく人間関係も実体験することになる。だから、読むたびに凄いなと感じる。
元来生意気でナルシストな私はラスコーリニコフの思想を理解するのに苦労はなかったし、酒飲みのマルメラードフの気持ちも理解できるようになった。何個かの彼の台詞はお気に入りである。マルメラードフの奥さんであるカチェリーナの演じる各場面も大きな教訓として私の心に刻まれているし、ラスコーリニコフの妹ドゥーニャを追うスヴィドリガイロフの気持ちも、また、ドゥーニャの婚約者であるルージンの気持ちも理解できる。
つまり「ああ、いるよな」とか「ああ、こういう気持ちになること人間ってあるんだよなあ」という感覚になってゆく。そして、その度に、そうした描写や台詞、あるいはドストエフスキーの分析やコメントの鋭さを感じる。
ただ私は今もまだ若いのであり、全ては読めていないと感じている。まだ「これはないだろ」と言いたい言動がいくつかある。それが、そのうちに「なるほど」と読めるようになってしまうのだろうか。なんだか、あまり嬉しくないが。
以前にも触れた苫米地さん。気になったのでもう一冊読んでみた。なかなかに興味深かったので、ちょっとメモする。
具体的でなくす。特に「私」という殻は抽象度低し。ただしリアルに。無限大の幸せや夢、快楽。最高の抽象は「空」 - 「何でもないものであり、かつすべてを包括するもの」。ただ、これは到達不可能か。そのためには「止観」(「私」などを止めて抽象的に観る)。
他の知覚に色、音、味などを対してマッピングする。記憶を総合、融合する。抽象概念であってもマッピングして身体的にリアルに感じられるようにする。美術館に行って、それぞれの絵画の「音」を聴く、食べ物の色や触感を思い浮かべる、など。
選択によって、自動的に未来が一つに決まることはありえない。一つ一つの出来事は「縁」であり、「起」のためには他の「縁」が必要。現在が過去を解釈することで過去は過去として存在する。この意味で現在が「因」で過去が「果」とのこと。思うに「原因/条件→結果/帰結」という因果関係や実在根拠の関係ではなく、「推論→結論」という論理関係や認識根拠の関係か。
未来において夢を叶える人にとっては、現在はどんな状況であろうと不幸なことではない。だから、夢をかなえる人というのは、現状が最高だと思っている人で、過去の解釈も良いものにし続ける人である。確かに「いまが苦しくたって、未来のために歩んでいるから」という人は強そうである。
カネでかなえられるのは夢じゃない。そんなのちっぽけ。他人からみるといかにみっともない。紙に書かなきゃ忘れるような夢も本当の夢じゃない。
本当に目標とする「らしさ」を獲得しなければならない。「夢」が書き変わってるなら、本当の自分の夢ではない。
なんともあやしい所も多いが(特に心理学などの知識を利用した対人的な心理操作のテクニックなど)、夢と欲望の話、時間の話など大部分はとても参考になった。他の著作も読んでみようと思う。
少し、こうした共感覚やパラレル思考、「止観」などの訓練もしてみようかと思う。
前回に続いて本が好き!からの献本。
著者がチベットで様々な人に会い、そこで感じたことが描かれている。仏教の本というよりは、時系列でなくテーマ別に並べた紀行文のように読める。
一つ一つの項目は短かいので、どれもサラリと読める。それに、出てくる話も「がんばらず」「ゆるく、賢く、楽しく生きる」という話なので、疲れない。
日々の疲れた日常で、ふと息を抜きたい時にいいかもしれない。
また、チベット仏教の本はあまり読んでないが、こうしたチベットの人の本をさらりと読んだ上でチベット密教の瞑想や理論の本を読むと理解が深まるかもしれないが、どう考えても本書が主題にしているのは「普通のチベットの人の考えてること」であり、必ずしもチベットの仏教ではない。だから、チベット式の生き方なだけであり、仏教的な生き方かというと、まあチベット人は仏教と一体化しているのだから一致している点は多いのだし、いいかとも思うけど、ちょっと違う気もする。
チベットと言うと、政治の話をどうしてもしたくなると思うのだが、著者はそうした話をほとんどしていない。勿論、そうした言葉で憎しみをかきたてても仕方ないと言えば仕方ないのだが、それが不思議であった。もしかしたら、そうした恨まないというのも「がんばらずに暮らす知恵」なのだろうか。それとも、やっぱり出版社の意図か。
不思議に思ってググると著者のブログが見つかった。
眺めるとすぐに中国の武装警察が、チベット最古の僧院で仏像を破壊というエントリが目に入ってきたので安心した。まあ、まさか現地にあれだけ行っていて、社会派なことの一つ思いつかないはずわないと思ってはいたが。
最後に、本書には著者プロフィールの後に http://www.k-word.co.jp/ というアドレスが書いてあるのだが、韓国取材のコーディネートに強いらしいキーワードという出版企画会社が出てくる。これはどういう意味でしょうか。


本が好き!からの献本。
著者は長野県農業大学校にて農政業務に従事しているらしい。基本的には農業政策が専門であり、医療は畑違いとも述べている。都庁で働いていたが、ベストセラーになった『二〇〇万都市が有機野菜で自給できるわけ - 都市農業大国キューバ・リポート』を読んで感銘を受けた田中康夫長野県知事に直接スカウトされたらしい[3]。こちらの本に対するAmazonでのレビュアーの評価は極めて高いので、この本も読んでみたい。
著作は他に『一〇〇〇万人が反グローバリズムで自給・自立できるわけ - スローライフ大国キューバ・リポート』, 『有機農業が国を変えた—小さなキューバの大きな実験』、訳書にジュールス プレティ『百姓仕事で世界は変わる—持続可能な農業とコモンズ再生』などがあるとのこと。
本書に出てくるキューバの医療の「強み」は以下の通りとなるか。
こうした強みを活かし、乳幼児死亡率は米国以下、平均寿命は先進国並みという結果を実現しているらしい。
度重なる経済難という事態の中、なぜキューバが世界に先駆けてそうした医療を実現できたかというと、ある意味で捨て身だったからこそ、徹底できたものと思える。
キューバが医療情報を世界に先駆けてIT化できたのは、紙がなく、当時は将来性も定かでなかったインターネットを利用する他に途がなかったからである。バイオや代替医療で成果を上げたのも、通常の医薬品が入らないから、漢方やバイオなどに頼る他になかったのだろう。
それにしても、絶望的な危機に際して、それを利点にすりかえる粘り強さと先見の明は、さすがゲリラ戦術による「革命」で国家を打ち立てただけのことはある。
キューバの昨今の情勢について wikipediaの「キューバ」の項目 を読んでみる。
1990年代初頭、経済的に依存していたソ連圏の崩壊で、キューバの経済事情は悪化した。特に、1989年まで続いた年間1,300万tに及ぶソ連の原油供給が中断したことで、キューバ経済は多大な打撃を受けた。また、アメリカの相次ぐ経済制裁法(1992年のトリチェリ法、1996年のヘルムズ・バートン法)により、一時は食糧不足にも苦しめられた。
2000年代前半に生じた原油価格高騰や、アメリカ同時多発テロ等の影響、更には2002年に生じた砂糖価格暴落とベネズエラの政変による石油供給中断等により、キューバは2002年に経済難を経験し、同年の経済成長は1.1%と低迷した。しかし、翌2003年は当初予想(1.5%)を上回って2.6%を達成し、2005年には「革命史上最高」の11.8%の経済成長を達成している。
そう言えばサルサを学びにキューバの音楽学校に留学した友人がいるが、彼が見たのは2002年のキューバだったか。キューバの「惨状」を見た彼は「やはり経済だ」「投資だ」と決心し、大学卒業後は野村証券でバリバリと働いていると聞く。ちょっと胃潰瘍になったりもするみたいだが、「銀座のレストランで彼女と上手い物を食う」ことを、心の支えにしながら励んでいるらしい。こういう言い方をすると、嫌味を言っていると邪推されぬかと心配するが、彼はいい経験をしたと本当に思う。いや、本当の本当に嫌味ではない。
さて、本書は、キューバがチャベスのベネズエラとも密接に連携していることも述べている。キューバの医療とベネズエラの石油は脱グローバリゼーション、ラテンアメリカの統合のための強力な武器になっているらしい。
以前、メキシコ人の友人のメールを本ブログにも転載したが[1]、ラテンアメリカは激動している。まあ、私ごときが言うことでもないが、日々世界を飛び回っている彼から入る世界情勢と日本のマスメディアから入る世界情勢との温度差には驚く他にない。こういう言い方もどうかと思うが、日本のメディアではラテンアメリカやアフリカ、アジアは存在しないも同じである。
本書でもそうした温度差のことが述べられている。キューバ医療の情報は英語圏、スペイン語圏ではかなり豊富なのに対し、日本語ではほとんどないらしい。もちろん、日本の医療が優秀であるのも一つの重要な理由であるのだろうが、それでもこれほどの大国であるのだから、万一の危機ためにも、世界の情報をある程度は流通してもいいと思う。
もちろん、日本において経済危機はあってはならないし、ありえないと信じたい。しかし、状況は刻々と変化し続ける。膨張し続ける医療費に対し、日本の経済が現在のようには応じられなくなる日も来る可能性もある。また、経済難に陥る可能性も完全に無いとは言えない以上、経済難の中、医療の水準を高めたキューバの事例はとても参考になるだろう。
食料と医療は、あらゆる状況でも確保されなければならない。もちろん、日本人はキューバのような状況になったとしても、優れた独自の解決能力があるとも思いたいが、この著者の他の本も読んでみようかという気になった。

世界がキューバ医療を手本にするわけ

内容はとても素晴しい。図書館で借りたのだが、購入しようと思っている。
ただし、以下の二点で「不誠実さ」を感じてしまった。些細なことだが、述べさせて頂きたい。
まず、題名についてである。本書は、題名が予想させる昨今流行の「禅的生活」系の本と異なり、非常に哲学的内容である。思想書、哲学書と言ってよい。禅のエッセンスをちょこっと取り入れて生活を潤わせましょ、なんて本ではまったくない。
こうした一般に開かれたような題名をつけてしまうと、少し禅に興味を持った人が手に取ってしまう危険性がある。そうすると「やっぱり禅は訳が分からん」となって禅という世界への第一歩のアクセスを失ってしまうだろう。
本書の本論の冒頭を写しておけば、私の言いたいことが伝わるかもしれない。
第一章 「根拠」の外部へ - 本物の「自己」とは何か気楽な「禅のすすめ」を求めている人は他書も手に取った方がよいかと思う。
1. 「私」に根拠はあるか
「自己決定の破綻」本章ではまず、存在の根拠を設定するような形而上学的なものの考え方や語り口と対照することで、私が考える釈尊や道元禅師の思想のユニークさを提示しておこうと思う。
これは本書の価値を貶めるものではない。自己や他者とは何かについて倫理的、存在的に悩む人は極めて少数である。ならば、そういう自己の問題を考えたい人が手に取りやすい題名を付けるべきである。
事実、本書の題名では私が仮に書店で見ても、本書を開くことすらしなかったと思う。本書を読めたのはamazonの書評のおかげである。読みべき人が目につきやすい題名にするべきだろう。
もう一つの問題点は、本書の思想の重要なベースがレヴィナスとラカンにあるのは私には疑いようもないのだが、どこにもレヴィナスのレの字もないことである。
[書評] 道元 - 自己・時間・世界はどのように成立するのか / 頼住光子では著者は井筒俊彦の意識と本質に関する分節─無分節理論の影響を最低限はしかるべき形で記していた。
しかし、本書ではそうした目立った記述は見られない。レヴィナスを知る人が本書を繙けば、著者の仏教理解のベースにレヴィナスが流れていることにどうしても気がつく。それが、あたかも仏教の思想、著者の解釈としてレヴィナスの考えが出てくると知的に信用ができなくなる。一言レヴィナスを触れてくれれば知的に信頼ができるので、残念である。
そう思いググってみた。著名なレヴィナシアンの内田樹のブログに仏教ルネサンスという記事があった。
老師は永平寺での修行の日々のあいま、87年にすでに拙訳『困難な自由』を読んでおられた古手のレヴィナシアンだったのである。 (……) だが、まことに意外なことに、どうやらレヴィナスと仏教は「相性」がよいようである。 ヨーロッパ的知性からすれば「存在するとは別の仕方」とか「絶対的他者」というのは思量の困難なものであろうが、仏教ではそれこそが中心的な論件である。
もし著者がレヴィナスと原始仏教の経典、曹洞宗の伝統的な教義、道元思想などの境界を的確に指摘しつつ、恐らくは多分に存在する著者自身のアクチュアルな思想を述べていただけたら、本書は更に素晴らしい名著となったことと思う。
ただ、上の二点は非常に些細なことと言えば、些細なことである。本書の内容を損なうものではないと言える。
この頃、忙しかったので、購入後に精読をして改めて内容についての書評を載せたいと思う。
ちょっと立ち読みをしたのだが、とても参考になったのでメモ。自分にとって興味深かったところだけ。
1) 脳を特殊な状態にする。「集中状態」とか「並列処理状態」とか。その為には、まず、逆複式呼吸でリラックス、次に目を瞑りオデコの中心を見るなどして集中状態にする。非線形な処理をできるようにする。
2) 常に次を予想する。丸暗記をしようとしない。予測をしてから外れれば「外れた!」という印象が刺激となり記憶に残る。過去問を解くよりも、教科書をこうした方法で憶えてしまえばよい。また英語の勉強も映画やドラマを予測しながら何度も見ればよい。
3) 抽象的なものごとを身体的に把握し、操作できる能力をつける。事前に各実在物の情報を獲得しておいた上で、瞬時に各々の抽象的な情報を把握・分析・操作する訓練。そして、抽象化のレヴェルを上げる。
「止観」も参考にしたとの言及もあり、最後の方に仏教の説明もある。最近の私の考えと、とても近い方法論と感じた。
よし、脳みそ鍛えよ。
スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ『魂の科学』を読んでみた。本書は五つの鞘の解説書であり、三年ほどでの修行スケジュールをフォーカスしているのだが、師の体験談には、師は以下のプログラムによって一カ月でかなりのレベル(空虚三昧に入る)にいったとある。
参考にメモ。
食事は一日一度、米とバターと塩のみ。
こうしたヨーガの集中トレーニングをいつかしてみたいものだ。
コンパクトな道元入門書。分かりやすいが奥が深い。空と悟り、時間・存在論を総合的に解説。
ハイデガー『存在と時間』は道元『正法眼蔵』の影響?から、道元の「有時」 - 「いまここ」の場と書いてきて、ちょっと道元の入門書でも読みたくなった。
小さな本がよかったので、試しにシリーズ・哲学のエッセンスの『道元 - 自己・時間・世界はどのように成立するのか』を読んでみた。全体として分かりやすく、とてもコンパクトに道元思想を解説してくれているように思う。原文の引用の後に必ず現代語訳がつき、最後に文献紹介がついているのも有難い。
著者についてはお茶の水女子大学の教育研究者情報によれば
日本思想における超越観念の諸様態を解明が研究課題で、具体的には 1)道元、空海、親鸞等の古代中世の主要な仏教思想家、とくに道元の主著『正法眼蔵』の注釈と思想構造の解明、 2)仏教説話等をてがかりに、日本人の精神世界の形成に仏教が果した役割についての考察、 3)和辻哲郎、西田幾多郎、宮沢賢治等、近代日本の思想を通じ、世俗化が進んだといわれる近現代における超越性のありようについての検討。とある。また、NHKの高校講座 現代社会の講師もしているようであり、同サイトで声も聞ける。
本書の道元思想解釈がどれほど一般的なのか、妥当性があるのはを私は知らない。ただ、読んで深みのある内容であると感じた。
本書における道元思想は以下のようになるだろう。まず、世界の本当のあり方は「無自性—空—縁起」であり、それを体得することが「解脱」であると説明する。つまり、時間や因果などによる分節・固定・実体化を離れることが「解脱」である。ちなみに、この「無自性—空—縁起」の解釈は、井筒俊彦の意識と本質に関する分節─無分節理論の影響がかなり大きいように思えた。
そして、その無差別・無時間・無意味なカオスから、自己・世界・時間を「われの尽力」によって関係付けて「現成」させることも忘れてはならない。これも「さとり」の一方向と言えるとのこと。
道元によれば、自己も時間も世界も、その根底にあるのは空であった。道元において、「空」とは、「空そのもの」と、相互相依する「空―縁起」として把握される。「さとり」とは、無時間、無意味、「無差別」である「空そのもの」へと還帰し、さらに時間や意味を「現成」させること、すなわち、「空そのもの」から、「空―縁起」なる全体世界を立ち上がらせることであった。(……)「空そのもの」から、自己が世界を「時」として意味付け、自己と関係付けて、「空―縁起」なる全体世界を現成させる。まさに、これこそが、自己と時間と世界との成立なのである。
以上のように、空、解脱、悟りという概念が、現成、有時という存在論、時間論として説明されている。
図も付いていて、説明も図式化されているので全体的な理解をしやすい。仏教用語を知らなくても、道元の思想の全体像を理解できるおすすめの本である。
私にとって興味深かったのは、自己と時間と世界との関係である。以下、本書の説明を下敷にして、自分の解釈に基づき考えてみたい。
繰り返しになるが、本来、空である世界はカオスである。そこでは何も存在はしない。
そこから、存在するためには言語化・意味化が必要であり、それを現成と呼ぶ。存在とは自己によって意味付けられてはじめて存在となるのである。ただし、それは今ここにおいてのみ成立する。物事は本来は空であり、その空であることに基いたまま、自己に基づいて主客合一のまま、今ここにおいて存在する、現成するのである。
空のままでよいではないかと思うかもしれない。しかし、それでは生きてはゆけないし、何よりも、何よりも現成とは普段からしていることであり、その最もシンプルで迷いから離れた世界の存在の仕方なのであるかと思う。
というのは、普段は現成した上に、執着、固定化がついてまわる。現成のみの場合はそうしたものから自由である。私と世界の分離のない今ここにおいてのみ、存在があるのであり、私も存在するのである。それ以外には空のみである。
こうしたことが「本無華といえども今有花」という言葉に示されているかと思う。
そして、そうした現成を体得しているとき、迷いなく生きていると言えるのだろう。
もう少し現成を詳しく考える。この問題は時の問題でもある。本書には、
現成とは空に立脚しつつ、自己に関係付けて「時」化することである。とある。この関係付けることを「配列」と呼ぶ。
そのままでは流れ去り断片化し無意味なものとなってしまうものを、「配列」し、相互に関係付けて意味を与えるということが「時」化することなのである。また、配列としての世界を縁起の世界と同値とも読めるか。
「空」に立脚した「縁起」の世界であり、「無差別」に根ざしつつ、「差別」的事物事象が「現成」する。すべてのものが、他のすべてのものと関係しあいながら一つの全体世界をかたちづくっているととらえられる。この時というのは、有時であり、時があることまさにそのことであり、有の時である。そして、そうしたことを知る自己もあるということである。存在させているのは、とりもなおさず、そうした「見る」自己であり、自己は時に存在させるという仕方でのみ存在する。つまり、見られる対象としての存在と、見る「自己」とが、ある時において成立する。
自己が配列するのであるから、存在は自己が生んだものである。ただし、自己は対象化されない。見ることしかできない。それも純粋に見ることを考えれば分かるように、今ここにおいてしか見ることはできない。自己の配列、自己の見ることを対象化できない。ただ自己はある時において見るのみであり、見られることはない。そうして世界は自己によって現成させられている。本来は空であり、無である。時においてのみ、有があるとは、そうしたことか。
本来、時間も空間も、世界も自己も空である。ただ、今ここにおいてのみ、見る私と見られる世界がある。何もないはずなのに、今ここでは、あるのである。不思議であるが、これを疑うことは難しい。この問題を見極めたいと私は思っている。ただ、分からない。
ただ、ふと思う。これが生きるということかと。
そして、それが生きるということだとすると、つまり、カオスであり空である世界を、その時、その時に見ている自己によって「存在」させるのが生きるということだとすると、生きるとは、流転のカオスの中に、今ここにおいて自己と世界とが存在と時間をすることか。
そのカオスを知覚し、その知覚によって世界と自己を有時/現成させ、更にその他己/有時を知覚し、更に他己を現成する。この空からの「いまここ」という刹那における無限、永遠のプロセスが生きることか。
だとしたら、生きるということは、為すすべもなく、必死に今ここに打ち込みながら、かつ、その今ここをただ見ているだけということか。
仏教とヨーガの関係を整理。豊かな宗教を取り戻すために。
実は本書は以前も取り上げた本だが(2007/01/09仏教関係の読書記録)また取り上げることにする。ヨーガや仏教の理解がこの半年で深まったせいもあり、本書のように全体を大きく眺めるような本を再び読みたくなったからだ。
ヨーガと仏教というと、どういうイメージだろうか。ヨーガは怪しいイメージかもしれないし、逆にホットヨガのように若い女性のものというイメージかもしれない。仏教は葬式の道具というのが一般的か。あるいは、その両方に対し、オウム真理教などの過激な新興宗教を連想する方もいるかもしれない。
本書では、そうした現代の「宗教」観を問い直し、現代の日本人の心身を救う正しい宗教のイメージを考える。そのキーワードとなるのが、ヨーガと仏教なのである。
目次は以下の通りである。
序 仏教ヨーガの提唱
第1章 「宗教」と宗教観
第2章 ヨーガの諸相
第3章 インドにおけるヨーガの歴史
第4章 ゴータマ・ブッダとヨーガ
第5章 『ヨーガ・スートラ』の教え
第6章 仏教の展開とヨーガ
第7章 日本におけるヨーガ
まず、筆者はインドにおいてヨーガが瞑想法として、いかに重要な役割を担っていたのかを説明する。仏教も、ヒンドゥー教も、それどころかイスラム教のスーフィズムもヨーガの影響なしには、現在の形ではないとのことである。この視点で考えると、坐禅はヨーガの一種である。
また、一方で、仏教の知恵もヨーガの成立に強い影響を与えたことも述べられてゆく。そうして、ヨーガと仏教が混然と日本の文化に入っていることを明らかにする。ヨーガと仏教は切り離すことはできないのである。
そこで考えられるのは、ヨーガの修行と仏教の知恵を組み合わせてゆくということだろう。これが、著者の主張する、心身の本当の健康の道である。
特に興味をひいたのは、ヨーガ・スートラの考証であり、その中で仏教の影響の部分などを分析してあったことである。ヨーガ・スートラの「ヨーガは心の作用の止滅である」などの部分は、初期仏教の強い影響からと説いた部分であり、逆に最終章では唯識に対する反論もあるとのこと。ヨーガ学派は、仏教と極めて近い場所にいたことがわかる。
また、外部から見ていたヨーガ学派のヨーガ・スートラを読むことで、初期仏教(原始仏教)から瑜伽行唯識派という仏教の発展も読み取れる。以前にも感じていた仏教とヨーガの関係の疑問(『インテグラル・ヨーガ - パタンジャリのヨーガ・スートラ』の書評を参照)も、整理できた感じだ。
本書を読むとヨーガが実に歴史が長く、その原理も実践方法も多様であることが分かる(先日の『ヨーガ・セラピー』はハタヨーガに基づいた心身の健康法と言える)。そして、その修行法なくして仏教の智慧がなかったことも考えると、仏教を考える上でもしっかりと学びたい分野である。
著者はオウム真理教の一連の事件をしっかりと受け止め、現代日本人にとっての本当の宗教を考えている。宗教などに嫌悪を感じる人も、是非一度は眺めてみて欲しい。