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なんだかな……。最近、俺はトイレ掃除をしている。
やっちまった……。俺、こういう人間にはなりたくねーんだよな、と思ってたワケなんだが、つくづく業が深いというかなんというか……まあ、この一週間ほど、朝起きたら自室の床を水拭きして、その後トイレを掃除している。彼女ん家でもコソコソと、朝の六時からアホのように便器をこすっていた。
はあ……
分かるかなぁ、俺の気持。俺は「信心深い」ってヤツが大嫌いだったんだぜ? それが最近じゃ「整体」だの「ヨーガ」だの「仏教」だの「業」だの……最後はトイレでウンでも付けようってのか?
そう、俺はアホウだな。うん。アホウだな。あったりめーだ。
ふむ。んで、開き直ってこの一週間で俺が経験したことを少々
「なんでトイレ掃除?」そうあなたは訊くかもしれません。実は、私にもよく分からないのです。宝くじを当てた人や、金持ちや芸能人(たけしとか)の何人かががトイレ掃除をしていて、それで幸運が舞い降りたと言っていたのは存じております。また風水でも水回りや玄関を大切にすることは存じております。
しかしながら、それに直接影響されて掃除をしようということになったのではございません。もちろん、間接的、つまり無意識な影響があったことは否定いたしません。
なんというか、朝起きて「するべきだろう」という気分になってしまったのでございます。そして、一度したら習慣のようになってしまったのです。
そうしたトイレ掃除は私に何かを与えるものであったのは間違いございません。だから続けているのでしょう。それは何なのか? 私はそれを言葉にしたいと思います。
まずトイレとは汚れた場所でございます。その汚れに正直に向きあいますと、色々と考えさせられるものでございます。
当然のことですが、トイレは最初から汚ないわけではございません。トイレを汚すのは私たち自身なわけです。つくづく、私ども人間が活動するということは、汚すということなのだと痛感してしまうわけでございます。
私どもが活動すると汚れるわけなのですから、掃除をして汚れを払わねばならないのです。これは、何もトイレに限った話ではございますまい。組織でも制度でも、人が活動すると汚れがたまるのでございます。ですから、時を見て、私どもは汚れを払わねばならないのでございます。トイレ掃除とは、こうした当然のことを、つくづく朝っぱらから痛感させていただける訳なのです。
そして汚れを取るということは、我が身を汚しながらでなければできないのでございます。自分の手などを汚さないような掃除の仕方では汚れを取ることなどかないませぬ。汚れそのものに我が身をつっこむようにしなければ、汚れを払うことはできぬのでございます。
これもつくづく考えさせられることでございます。我が身を可愛いのは当然です。我が身を汚したくないのも当然でございます。しかしながら、それでは身の回りの汚れをとることはできないのでございます。
よろしいでしょうか。我が身かわいさに掃除を怠れば、身の回りはどんどん汚れてゆくのです。それでは生きてはゆけぬでしょう。それゆえ、私どもは、時に汚れ、身の回りを改める必要があるのでございます。汚れることを嫌っていては、私どもはゴミの中で生きてゆく他ございますまい。
汚れねばならぬのなら、ありがたく汚れさせていただくより他ございますまい。汚れを払い、美しくなる様を見させていただけることに感謝するより他ございますまい。そうした心にならせていただいたことに感謝するより他ありますまい。
そうであればこそ、我先にと我が身を汚れになげうち、一心に汚れを払わせていただくのでございます。
はは。こんな文書いて、ちと鬱だが……ま、これ、おもしろいな。あ、冗談だかんね? 影響されてトイレ掃除とかしちゃダメよ?
ま、そんなこんなで。