2007-06-08

私の仏教と禅の理解

いつの頃からか「仏教」に興味を持った。石飛道子『ブッダ論理学五つの難問』を読んだのが切っ掛けだったと記憶しているから、それは一昨年の夏からということになるか。

「仏教」は、私にとって、信仰や宗教、倫理や道徳ではなく、「論理」として私を魅了した。それは「因果」「因縁」「縁起」と呼ばれる。「四諦」や「十二因縁」は勿論のこと、更に「八正道」すら、私はそれを「因縁」の理論として理解した。つまり、仏教は因果という論理による、存在論、認識論、価値論(倫理)を包括した哲学体系であり、その体系に基づくトレーニング体系である、という理解の下に私の仏教の興味は始まった。

以上は私の「誤解」である。

仏教とは釈尊による教えであり、仏道とは彼によって説かれた仏となるための道だが、釈尊はそうした教えや道を体系にはしなかった。彼は、体系という単一の教えや修行法を普遍的に適応せず、一人一人に個別に、その場その場の問題に適うように彼は話したのである。そうすることで、「体系化」と、それに不随する形而上学化を防ぎ、「具体的な効果」を挙げていったのである。彼の簡単な助言により、弟子は次々と悟る様が初期の経典から窺える。釈尊の教えは、体系化できず、個別具体的に、人々を悟りへと導くものなのである。

こうした当意即妙な彼の教えは、後に「方便」という言葉、いや文化を生むことになるだろう。「嘘も方便」というときの方便であるが、何も「嘘」をつくのがいいということを言うのではない。相手を悟りに近付ける方法が方便であり、その方便で一段階悟りに近付いたら捨てねばならない「仮の教え」が「方便」である。画一的で固定した教えではなく、当意即妙にして確実に相手を悟りに近付け、かつ、その用途の後には捨てられるべき「方便」として、仏の教えはありえると考えられるのである。この方向性は大乗仏教、密教となるに従い強いものとなっていった。

かくして仏教の教えを体系的に知ることは不可能かつ無意味であることが知れる。故に決定版の仏教の解説書は存在し得ない。存在するのは「方便」のみなのだから。しかも、それを本で読んだところで、その「方便」が自分にとっての「方便」になるか判断は出来ない。故に既に悟り、仏道を究めた人、つまり「仏」となった人に会うことが、仏道にとって重要であることが分かる。ただ、その人が「仏」であるのかどうかは、自分を悟らせてくれる迄は分からないのであり、この問題は非常に厄介である。

先日、禅寺の住職と話した折、彼が「悟り」に対し懐疑的なのが印象深かった。

「世界中を探した訳じゃないですが」と断わった上で、彼は語った。「きっと『悟った』人なんていないでしょう。海外を含め、今まで様々な仏教徒を見ましたが、そうした人に出会ったことはないし、これからも会うことは無いと思います」

ここで注意が必要なのだが「悟り」つまり成仏(仏と成る)は、彼によれば、二つあるらしい。一つは全くの自由自在となり望まずして全てが叶う状態となることであり、無限の存在となることである。もう一つは有限な存在として「全てを、あるがままに、受け入れること」「自分を投げ出すこと」である。彼がいま問題にしているのは無限となる悟りのことである。

「有限な存在である人間は無限である仏にはなれません」彼は語る。「つまり、人間そのものが、阿弥陀にようになることはかないません。もし可能であるとしたら、それは死後の話でしょう。ただし、死後を私たちは直接に経験できない以上、この話は無益な雑談の域を越えません。勿論、そうした超越存在になる努力をする人々を否定する訳ではありませんが、私に興味はありません。

しかしながら、私たちは有限であることを自覚することはできます。そうして自分を投げ出すことはできるでしょう。自分を投げ出し、全てを受け入れた時、『私』という小さなものは限り無く小さくなります。もしかしたら、消してしまうこともできるかもしれません。我々は『我執』と呼びますが、本来、我のこだわりは妄想であると考えております。故に、妄想である『我』を消すことは可能なのです。

だからこそ、悟る『ために』坐ってはならないのです。

無益に、何の目的もなく、ただひたすら坐るのです」

そして、やや沈黙の後に言葉を続けた。「いえ、坐禅に座らせられるのです」

坐ることが、何をうむかは分からないし、うむと考えて坐るのは邪道ということになる。ただひたすら坐るのである。

「黙って十年坐ること、さらに十年坐ること、その上十年坐ること」

いやはや、難しい。

ただ、一つ確実に言えるのは、理由もなく坐れる人は運命が坐らせているのだろう。つまり、その禅寺で日夜坐る人々は個人的な意図が完全に無いとは言えないだろうが、ホンネはそうであれ、少なくともタテマエは「無功徳」「無意味」であることを了解して坐っている。いや、本心から、無意味として坐っている人もいることだろう。そうして坐れること自体が、運命の導きであり、まさに坐禅が坐らせているといっても過言ではないと思う。

逆に言えば、そうした運命に坐らせられた人以外には坐禅を云々する権利はないということだ。「坐禅は無駄だ」と批判した所で、坐っている当人は「はい、そうです」なのである。「坐ってどうなる?」と訊いても「何にもなりません」なのである。坐禅について、ロクに坐ってない素人が云々しても仕方ない。坐禅を口や頭で云々しても仕方がないのである。それは「感じる」しかないのである。

こうした問題は坐禅に限らない。例えば芸術である。優れたの内の何人かは芸術家は、己の芸術活動に意味を与えていない。「これがしたいから」芸術しているのではなく、ただひたすらに「芸術をさせられている」のである。優れた竹細工師が「竹と戯れているだけ」「竹に遊んでもらっている」と語る時、彼の境地を窺うことができると思うのは私だけではないだろう。

そして芸術が「無益」であることも知っている場合が多い。少なくとも「情操教育として」「金銭を稼ぐため」「名声を得るため」などの理由で「芸術」をしている人間も多いだろうが、それが本質的な芸術ではないということを認めてくれる人の方が多いと思う。

そして芸術も口や頭で云々しても仕方ない。ただ感じるしかないのである。

それにしても、私は坐禅に坐らせられるのだろうか? よくわからない。もしかしたら、そうなるかもしれない。

ただ、現在の私は同じ「無意味」なことをするのなら、今暮らしている人々と、無意味な混乱と喧騒の中で生きるのもいいかな、と感じてはいるのだが。