「頭陀」とはサンスクリット語の「ドゥータ」という言葉の音訳であり「払い落とす」という意味らしい。何を払い落とすのかというと衣食住に対する貪欲を払いのけるための修行である。その項目は12とも13ともあり十二頭陀行、十二頭陀支、あるいは十三頭陀行、十三頭陀支などと呼ばれる。
- 糞掃衣…糞掃衣以外着ない
- 三衣…大衣、上衣、中着衣以外を所有しない
- 常乞食…常に托鉢乞食によってのみ生活する
- 次第乞食…托鉢する家は選り好みせず順に巡る
- 一坐食…一日に一回しか食べない
- 一鉢食…一鉢以上食べない
- 時後不食…午後には食べない
- 阿蘭若住…人里離れた所を生活の場とする
- 樹下住…木の下で暮らす
- 露地住…屋根や壁のない露地で暮らす
- 塚間住…墓地など死体の間で暮らす
- 随所住…たまたま入手した物や場所で満足する
- 常坐不臥…横にならない。座ったまま。
これは「戒」ではないらしい。つまり守るべきと決められたものではない。そして、これは「苦行」の一つとも聞く。
ただ、ここで思うのは釈尊は苦行を斥けたのではないかという疑問だ。そう彼は「中道」を提唱し、享楽も斥け、苦行も斥けた。なんとなれば、そのどちらも精神の成長を促さないからである。最低限の「戒」を守ることで足るとし、あとは「定」、つまり瞑想と、そこから生まれる「慧」によって人は「無明」から脱っすると考えたのである。
それでは、この頭陀行とは「外道」なのか? どうも、そうではないらしい。釈尊は励行していたようである。
思うに、「悟る」と、自然にこうした頭陀行のような生活になるのではないだろうか? 上の行を自然にこなす人間になっているのではないだろうか。
多くの宗教者は、金銭を活動によって得ることを禁じ、乞食(「こつじき」と訓みたい)によって生きた。釈尊も道元もそうであったと思う。つまり、そうした頭陀行としての人生があるのだろう。
我々は「こじき」を軽蔑する。働かざるもの食うべからず、である。
しかし托鉢に生きる人生というものも、しばし考えてみたいと思う。