cckjb015 さんの質問への解答をします。失礼かとは思いますが、コメント欄に書くのが狭くて面倒なので……。
「とらわれること」が問題
「苦行」も捕われれば欲になるのでしょうか。については、ちょっと質問そのものを考えますね。基本的には欲はオーケーと考えます。問題は執着することであり、「とらわれること」そのものが問題と思います。
例えば食欲はあればあったで、苦しくはない欲望です。食べると嬉しいし楽しいです。ただ、それがある種のとらわれになり、執着になると生きずらくなります。「何で食べられないんだ!」とか怒ると苦しいです。とらわれないと楽です。
食べられる時は食べて幸せになって、食べられない時は食べられないなりに幸せになるのがいいと思います。
欲があっても、楽しかったりするのはオーケーです。苦しくないですから。問題は、そうした欲にとらわれて苦しくなったりすることが問題です。人は欲が充足されない事それ自体よりも、時に「とらわれ」によって苦しむものです。
食欲の例で言えば、皆で一二食抜くくらいは普通は大したストレスにはなりません。「カネないねー」とか言いながら友人と寂しい夕食を分けあうのは喜びすらありました。若いから、というだけでなく、人間はその他の動物と基本は同じなので、本来はそれくらいはつらくないように出来ていると思います。多くの宗教などで断食や節食をしていることを考えてもそう思います。
ただ、それが人と比較したりする時に、苦しくなります。「なぜ、食べられないんだ!」となります。とらわれが深ければ、きちんと食事があっても、周りの人がうまそうなものを食べていると自分と比べてしまって苦しいかもしれません。比較はとらわれです。「いま・ここ」で幸せになろうとすればよいので、比較をして苦しくなるのは苦しいです。食のとらわれで、無駄に「おいしいもの」を「大量に」食べて精神や身体を破壊する可能性すらあると思います。それは苦しいです。
苦行をすることも大いに結構です。それが苦しくなければ……というと難しいですが、それがある種の爽快感を与えたりする筈ですから、気持ちいいんじゃないかと思うんです。
ただ、それが執着になり、苦行なしでは生きていけないとなってしまったり、他の人を軽蔑したりしだすとよくないと思います。そういう人生って苦しいですから。苦行は苦行でよいと思うからやっているが(実際よさがあるのでしょう)、やらないならやらないでもオーケーというのが理想かと思います。
さとりとは?
何にも捕われない心というのはあり得るのでしょうか。いたらなさのようなものによって、何か気づきながら生きて行くのかなあと思ったりします。
「さとり」をある意味で否定し、ある意味で「修行」し続けて生きてゆくという、 id:cckjb015 さんの言うような考えは、有力な考え方と思います。道元の立場の立場と言えるのではないかと不勉強ながら思います。
一方で超越的な「さとり」を訴える人もいますし、限定的ではあるけれども欲望のコントロールが完全にできるという意味での「さとり」を訴える人もいます。どれも稚拙な文ですが2007/05/29に書いた[書評] 仏教誕生 / 宮元啓一や2007/06/08の私の仏教と禅の理解、それに毛色は違いますが2007/04/19の[書評] タオの気功 - 健康法から仙人への修練まで / 孫俊清などをお読み下されば、参考になるかと存じます。
豊富な「悟り」に向けた体系があること自体、人間がそうしたことを考えるほど豊かで余裕が持てるようになったとも取れますし、逆に、それほどに生きるのがつらいということの現れかとも思います。共に知性を持ったことが原因でしょう。
きちんと悟る
ただ私個人としては、「修行し続けてゆく」という考えではありません。なんと言いますか、難しいのですが、きちんと悟った人間、そうした人間になるのだと思います。悟ったという状態が身に付くのだと思います。私がよく出す比喩なのですが、自転車や泳ぎを覚えるようなものと考えております。自転車や水泳は、一度コツをつかめば忘れません。「昨日はできたけど、今日は調子が悪くてちょっと……」ということは特別の事情以外はない筈です。
「悟る」のもそういうことだと思うのです。悟りの定義をここで便宜的にしておきますが、自然にあるがままに、あるべきものごとを愛せてしまうこと、としておきましょう。全ての物事を愛せてしまうので、その人から見れば世界は自由自在な訳です。
万能の超人にはならない
ここで注意が必要かもしれませんね。私は超人的な能力を人間が獲得できないという立場です。全てを思いのままにできる人はいないと思います。実在するなら世界は今あるようではないと思います。それにブッダも身体的疾患を抱えて80で死んだ訳ですし、イエスもゴルゴダの丘で「我が神よ、どうして私を見捨てたのですか」と叫んで死んだわけです。
自由自在になっているから、物事を愛せるのではなく、物事を愛してしまうから、自由を感じるのだと考えております。いかなる結果が起きても、それを愛してしまえれば、その人は不自由を感じないのではないかと思います。
しかしながら、問題は、どう考えても理不尽なことが起きた時です。それも自分が殺されるとか拷問されるではなく(それなら愛そうと思えば愛せるのは想像できます)、人が苦痛にもだえ、死ぬ時です。それも無意味に無惨に大量に。理不尽な人の死を愛せるのかという問題があります。実は自分なりの答はあるのですが、誤解しか生まないでしょうから、いま書いたけど消しました。、イエスが「我が神よ、どうして私を見捨てたのですか」と叫んで死んだことを、それでも、なおかつイエスが神の子であったと考えて解釈すると出て来ました(ちなみに詩篇22の引用と考えても悲痛な叫びであることは変わらないと思います。いや、詩篇22を合わせた方が、よっぽど絶望的に思えます)。
そして、そうした悟りの状態になる、悟りの光が現われるように、ある種の人間は出来ていると思います。つまり、苦しみがなく、不自由を感じずに暮らせるように人間は出来ているのだと思います。
平凡でどこにでもいる悟った人たち
そういう人は沢山いたし、いまもいると思います。その人は悟っているとも思わないでしょうし、特別な能力があるわけでもないから、人々も特別視しません。ただ、苦しみや不自由を感じる回路が存在しないで、何でも愛せて生きている人は必ずいるように思えるのです。いや、正確に言えば、私の認識では何人かいるのです。
勿論、ただの勘違いの可能性が高いのですが、私には、そう人間はなれると思えてならないのです。世の中が不完全だと骨の髄まで痛感した人は、苦しみや不自由を感じると思えないのです。別に必ずしも痛い目を見る必要があるわけではありません(勿論、実体験は有効ですが……ただ、ビルから落ちたら死ぬことを実体験で確認する必要がないのと同じく、世の中が不完全であることを実体験で確認する必要は少ないと思います)。ただ、そうした教育や文化があれば、そうした暮らしは可能と思います。
苦しみが減った
傲慢な物言いですが、あくまで説明のために書きますが、現に私自身の苦痛が減っているのです。なんといいますか、かなり苦しくなく生きられるようになって来ているのです。怒ります、悲しみます、痛がります、腹減ります。でも、とらわれによる苦しみが減っているのです。ある意味で、苦しみが無いと言ってもよいくらいに、苦しくないのです。
状況が良くなったんじゃないかと思われるかもしれません。そんなことはありません。「みじめ」と言ってさしつかえない状況なのです。
慣れただけじゃないかと思われるかもしれません。ただ、そうとは思えないのです。
ただ、執着と呼ぶべきものが離れていったと思うのです。大きなものは虚栄心でした。人に認められたい。理解して欲しい。正しいと言って欲しい。無能に思われたくない。バカと思われたくない……などなどの執着がやっと取れたのです。
そして過去や未来を妄想しなくなったのです。思い出すだけで全身が燃えるような後悔や悔やしさ、絶望的な不安や恐怖から自由になり、目の前の現実を苦しくなく生きることに集中できるようになったのです。
それは、ゆっくりとそうなったというよりは、身に付いたという感覚なのです。
私のレベル
ただ、ここまで読んでご理解いただける通り、私は、この程度のレヴェルなのです。この程度のレベルの人は多くいることは理解しているので、何もこんな文書を長々と書くような人間ではないのです。人によっては生まれた時にクリヤしている問題を、私は二十をだいぶ過ぎてから、やっとのことで、かなりの努力をして、身に付いたというだけなのです(しかし、比較する気もないので、だからどうしたという訳ではありません。私にとっては貴重な成長で、それが何より価値があります。ただ、人様に読ませている以上、私が他の人と比較してどういう状況かを嘘をつかずに報告する義務はあると思いましたので)。
2007/06/03に父の幸福を祈る(1) 過去を変えるにも書いた通り、私はやっとこの歳で、他の多くの人が場合によっては生まれた時からクリアしているような問題を、乗り越えつつあるのです。はっきり言えば、恥ずべきことと存じます。この歳まで、そして今も、父を恨んでいることは、恥ずべきことです。そして、私はいかなる意味でも、その程度の人間なのです。その程度の段階から、少しでも少しでも、そう本当に少しでも、恨みを無くし、苦しみがなく生きてゆけるようになりたいだけの男なのです。
ただ、それでも、そうして恨んだまま、生活をしていき、子をさずかり、その子を苦しませるよりは、ここで、恨みの連鎖を止めたいと思うのです。この「恨みの連鎖」の一文、非常に迷信的ですが、そう思っているのです。
ただ、そうした苦しみが、現実になおったのです。今は胃も頭も腰も何もかも、どこもかしこも、全然痛くないのです。そして、現在も悲惨な生活そのものなのですが、ちっとも苦しくないのです。
そして、何もどこにも苦しいことはないのではないか、不自由はないのではないか、いや、そもそも、私が認識している物事は何も実在していないのではないか、という気分になりました。いや、それは言い過ぎですね。誤解なく言うのは難しいです。
階段になっている
そうした階段を確実に昇ったという実感がある私としては、どうもこの次の階段もありそうで、その次の階段もあり、人間というものは、確実に階段を登れるのではないかと感じているのです。そして、その何段か先に苦しみが完全に発生しないレベルが確実に存在するように思えるのです。
ただ、それは大したことではないのです。世の中には、そうした人が大勢いるのだと思うのです。一方で、人から見たら何でも与えられ幸せに暮らしていそうな人が、本当は生命そのものを呪うほどの苦しみを背負って生きているのです。そうしたものなのだと私は思うのです。
こうした経緯があり、私は超人的なレベルの悟りには懐疑的ですが、ひとまず運命愛とでもいえるような、あるがままをそのまま愛せてゆけ、過去も未来も忘れ、目の前の現実を明るく暮らしてゆける状態が確実にあると思うのです。それも、そうした状況は身に付いているもので、下にはなかなか落ちないで暮らしてゆける状態が。ある意味でいうと、技に近いものだと感じるのです。
成人すること
いつだったか、どこだったか忘れましたが、ネイティブ・アメリカンかアボリジニだったか忘れましたが「西洋人は皆病んでいる」と言った人がいたそうです。「彼らは、成人しているのに何かを疑う」と。
逆に言えば、彼らは、全てを疑わずにありのままに受け入れて生きてゆけるということでしょう。そうした知恵が技として成人するまでに身に付いているということと理解しました。そうした人々がいるらしいということが私の希望になります。そして、それが本来の成熟すること、成人することなのでしょう。
坐禅は良くなるためにやるのではない、良いとか悪いとかの分別を超えるために坐るというような言葉も頭に浮かびます。私は、様々なことを疑い、概念を弄び、逆に自らの疑念と観念に弄ばれ苦しんできたものと理解しております。文字通り「観念」しなればなりません。未熟なのです。
今はそうした「分別」を乗り越える最中なのです。だから、ギリギリのところで、こうした中途半端な文書が書けるのだと思います。本当に乗り越えてしまったら、こんな文書を書く「分別」はないでしょうから。まだ、自分の苦しみを人におしつけたいという執着が私を捉えているからこそ、こうした半端なものが書けるのです。