2007-07-13

[書評] 道元 - 自己・時間・世界はどのように成立するのか / 頼住光子

このエントリーをはてなブックマークに追加

コンパクトな道元入門書。分かりやすいが奥が深い。空と悟り、時間・存在論を総合的に解説。

ハイデガー『存在と時間』は道元『正法眼蔵』の影響?から、道元の「有時」 - 「いまここ」の場と書いてきて、ちょっと道元の入門書でも読みたくなった。

小さな本がよかったので、試しにシリーズ・哲学のエッセンスの『道元 - 自己・時間・世界はどのように成立するのか』を読んでみた。全体として分かりやすく、とてもコンパクトに道元思想を解説してくれているように思う。原文の引用の後に必ず現代語訳がつき、最後に文献紹介がついているのも有難い。

著者について

著者についてはお茶の水女子大学の教育研究者情報によれば

日本思想における超越観念の諸様態を解明が研究課題で、具体的には 1)道元、空海、親鸞等の古代中世の主要な仏教思想家、とくに道元の主著『正法眼蔵』の注釈と思想構造の解明、 2)仏教説話等をてがかりに、日本人の精神世界の形成に仏教が果した役割についての考察、 3)和辻哲郎、西田幾多郎、宮沢賢治等、近代日本の思想を通じ、世俗化が進んだといわれる近現代における超越性のありようについての検討。
とある。また、NHKの高校講座 現代社会の講師もしているようであり、同サイトで声も聞ける。

空の体得の解脱の後に、現成させる

本書の道元思想解釈がどれほど一般的なのか、妥当性があるのはを私は知らない。ただ、読んで深みのある内容であると感じた。

本書における道元思想は以下のようになるだろう。まず、世界の本当のあり方は「無自性—空—縁起」であり、それを体得することが「解脱」であると説明する。つまり、時間や因果などによる分節・固定・実体化を離れることが「解脱」である。ちなみに、この「無自性—空—縁起」の解釈は、井筒俊彦の意識と本質に関する分節─無分節理論の影響がかなり大きいように思えた。

そして、その無差別・無時間・無意味なカオスから、自己・世界・時間を「われの尽力」によって関係付けて「現成」させることも忘れてはならない。これも「さとり」の一方向と言えるとのこと。

道元によれば、自己も時間も世界も、その根底にあるのは空であった。道元において、「空」とは、「空そのもの」と、相互相依する「空―縁起」として把握される。「さとり」とは、無時間、無意味、「無差別」である「空そのもの」へと還帰し、さらに時間や意味を「現成」させること、すなわち、「空そのもの」から、「空―縁起」なる全体世界を立ち上がらせることであった。(……)「空そのもの」から、自己が世界を「時」として意味付け、自己と関係付けて、「空―縁起」なる全体世界を現成させる。まさに、これこそが、自己と時間と世界との成立なのである。

以上のように、空、解脱、悟りという概念が、現成、有時という存在論、時間論として説明されている。

図も付いていて、説明も図式化されているので全体的な理解をしやすい。仏教用語を知らなくても、道元の思想の全体像を理解できるおすすめの本である。

有時・現成

私にとって興味深かったのは、自己と時間と世界との関係である。以下、本書の説明を下敷にして、自分の解釈に基づき考えてみたい。

繰り返しになるが、本来、空である世界はカオスである。そこでは何も存在はしない。

そこから、存在するためには言語化・意味化が必要であり、それを現成と呼ぶ。存在とは自己によって意味付けられてはじめて存在となるのである。ただし、それは今ここにおいてのみ成立する。物事は本来は空であり、その空であることに基いたまま、自己に基づいて主客合一のまま、今ここにおいて存在する、現成するのである。

空のままでよいではないかと思うかもしれない。しかし、それでは生きてはゆけないし、何よりも、何よりも現成とは普段からしていることであり、その最もシンプルで迷いから離れた世界の存在の仕方なのであるかと思う。

というのは、普段は現成した上に、執着、固定化がついてまわる。現成のみの場合はそうしたものから自由である。私と世界の分離のない今ここにおいてのみ、存在があるのであり、私も存在するのである。それ以外には空のみである。

こうしたことが「本無華といえども今有花」という言葉に示されているかと思う。

そして、そうした現成を体得しているとき、迷いなく生きていると言えるのだろう。

もう少し現成を詳しく考える。この問題は時の問題でもある。本書には、

現成とは空に立脚しつつ、自己に関係付けて「時」化することである。
とある。この関係付けることを「配列」と呼ぶ。
そのままでは流れ去り断片化し無意味なものとなってしまうものを、「配列」し、相互に関係付けて意味を与えるということが「時」化することなのである。
また、配列としての世界を縁起の世界と同値とも読めるか。
「空」に立脚した「縁起」の世界であり、「無差別」に根ざしつつ、「差別」的事物事象が「現成」する。すべてのものが、他のすべてのものと関係しあいながら一つの全体世界をかたちづくっているととらえられる。
この時というのは、有時であり、時があることまさにそのことであり、有の時である。そして、そうしたことを知る自己もあるということである。存在させているのは、とりもなおさず、そうした「見る」自己であり、自己は時に存在させるという仕方でのみ存在する。つまり、見られる対象としての存在と、見る「自己」とが、ある時において成立する。

自己が配列するのであるから、存在は自己が生んだものである。ただし、自己は対象化されない。見ることしかできない。それも純粋に見ることを考えれば分かるように、今ここにおいてしか見ることはできない。自己の配列、自己の見ることを対象化できない。ただ自己はある時において見るのみであり、見られることはない。そうして世界は自己によって現成させられている。本来は空であり、無である。時においてのみ、有があるとは、そうしたことか。

本来、時間も空間も、世界も自己も空である。ただ、今ここにおいてのみ、見る私と見られる世界がある。何もないはずなのに、今ここでは、あるのである。不思議であるが、これを疑うことは難しい。この問題を見極めたいと私は思っている。ただ、分からない。

ただ、ふと思う。これが生きるということかと。

そして、それが生きるということだとすると、つまり、カオスであり空である世界を、その時、その時に見ている自己によって「存在」させるのが生きるということだとすると、生きるとは、流転のカオスの中に、今ここにおいて自己と世界とが存在と時間をすることか。

そのカオスを知覚し、その知覚によって世界と自己を有時/現成させ、更にその他己/有時を知覚し、更に他己を現成する。この空からの「いまここ」という刹那における無限、永遠のプロセスが生きることか。

だとしたら、生きるということは、為すすべもなく、必死に今ここに打ち込みながら、かつ、その今ここをただ見ているだけということか。