2007-08-31

悪夢から逃れるための明晰夢

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私はよく悪夢を見た。悪夢の量と質ならかなり負けない。いや、こんなこと書いてると悩みについての戯言と同じになってしまうか。ただ、本題に入る前に、一つだけ書かせて欲しい。笑って頂ければ幸いである。

それは大学2年の夏だった。夢の中で、悪夢を見るという悪夢だった。

夢の中で、まず、私が美人の女性に心臓をえぐられて死ぬ。「あ、死ぬ……」と思っていると、目が覚めて部屋のベッドに居る自分に気がつく。すると、トビラをノックする音が聴こえる。「あれ?」と思ってトビラを開けると、さっきの女性が立っている。そして、部屋に入って来て私の心臓を微笑みながらえぐるのである。また、「ああ、死ぬ……」と思うと、目が覚めて部屋のベッドで寝ていた自分に気がつくのである。そして、また、トビラがノックされ……。

恐くてトビラを開けないと、電話が鳴るのである。出るとその女か、私の親しい人間の声が聴こえる。そして、私がトビラを開けないせいで、その親しい人が殺されると言うのである。それでもトビラを開けないと、トビラの向こうで断末魔の叫びやうめき、罵倒の声、それに私への失望や憎しみ、怒りのこもった拳が、最後の力が尽きるまでトビラを叩き続ける音がするのである。何人かの死に耐えたとしても、私は最後にはトビラを開けざるを得なかった。

目が覚めても、目が覚めても、それは「現実」ではなく悪夢の世界の目覚めなのである。こうした連鎖を数回した後、だいたい午前4時頃に目が覚めるのである。ただ、起きても「これも夢ではないのか?」と気が気でない。恐ろしくて、トビラを開けるのにも勇気が必要であった。もう、寝るどころではない。かといって何もできない。体力も精神力も消耗し尽くして、白々と明けてくる空をぼんやりと眺めるしかなかった。

二、三日続く内に、私はこの悪夢の対処に真剣にならざるを得なかった。掃除や食事、寝る時間にも気をつけたし、匂いの商品も買ってみるなどをした。

こうした努力が実らない中で、「これは、夢なのか? 現実なのか?」と問うことが日常化していった。

そうしたある日、夢の中で「これは夢なのか? 現実なのか?」と考えたのである。すると即座に「ああ、夢だ」と分かったのである。不思議なことに、ほっぺたをつねらなくても現実が現実であるのが分かるように、夢は夢だと分かるのである。いわゆる明晰夢である。

明晰夢となった瞬間に、私はこの無限循環する悪夢から抜け出せた。夢が夢だと分かれば恐くはないのである。その瞬間から、何と言うか、思うだけで入力ができるて自由に制御できるコンピュータから生成される映像を見ているような気分になるのである。もう、悪夢ではなくなる。思うがままである。悪夢と鬪うには明晰夢にすることが有効である。

その方法は、日々、自然に「これは現実だろうか? 夢だろうか?」と問い続けていることである。恐らくは頭のネジが外れていない限り、あなたはしっかりと「現実だ」と判断できるだろう。これが揺らいだらヤバいと思う。そうした問う習慣さえ出来れば、夢の中でも自然に問いが起こり、自然に「夢だ」と判断できるだろう。

ところで、こうした明晰夢を見ることで副作用がある。皆がなるのか分からないが、白昼夢を見やすくなると思う。いや、元々、私は白昼夢を見る方だった。ただ、その白昼夢が自然に浮かんで来るのである。そして、その白昼夢が現実認識と同時進行で起こるのである。つまり、現実で生きていながら、頭の中では夢を見ているのが、微妙に重なっている状態なのである。誰しもボンヤリとしている時に、ふと頭の中に思い出の場所や人物などが思い浮かぶことがあると思う。そうした想起が、より強固に、普通に現実生活をしながら並列プロセスとして起動するのである。現実生活しながら、妄想いっぱい夢いっぱいである。まあ、かなり現実感は薄くなる、というか、「自分」とかそういうものへのリアリティーが薄くなる。

私はよく、歩いているとぼんやりとして、人に話し掛けられるとはっとする。そうした時、私は歩いていながら、夢の世界にふっとんでいるのである。

まあ、この副作用には今のところ害はないと思っている。そんなこんなで今年で27になる。

なんだか、俺、ヤバそうだな……。

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