観念という言葉がある。少しだけ、この言葉についてメモしておく。どれも雑感や憶測であり、根拠はないので注意して欲しい。
観念とは不思議な言葉である。面倒なので意味を調べもしないが、まず「概念」というような意味を持つ。「考え」や「意味内容」とでも言えばいいだろうか。そういう意味を持つ。
恐らくは、この意味は idea の「翻訳語」なのであろう。予想だが、元々の「観念」は仏教語であり、 idea を意味する言葉ではなかったのではなかろうかと思う。それがどうして、「 観念 = idea」になったのだろう。不思議であり、興味が湧く。
仏教用語の系譜はひとまずさておき、翻訳語としての「観念」は idea を意味する単語なので、観念論や観念的という言葉を生んだのだろうかと思う。
次に「観念」というと「観念しろ」とか「観念しました」という言葉が思い浮かぶ。いわば「あきらめる」という意味である。
この点にも非常な興味が湧く。これは、明らかに仏教を考えないと出てこない。
観念とは「念を観る」と書く。ここで漢字にこだわらず、観念という言葉事態が仏教経典の翻訳語と考えると、 パーリ語で vippasana sati と思える。これは、「気づきを観察する」「洞察を観察する」という意味になろうか。あるいは、ヴィパッサナー瞑想とも言えなくもない。
こう考えると、観念するということは、自分の根源的な洞察なり、感覚なりを、ありのままに見るという意味に取れる。「念」とは気づき続けるという充分な意識状態であり、それを観察するということは、疑いようもない、与えられた今ここの持続を観ることになる。如実智見である。
ここまで考えると、観念が「諦める」という意味とつながる。あきらめるとは「やめる」ことではなく、「明らめる」、明らかにすることである。「諦める」とは「あるものを、ありのままに、あきらかに観る」ということだろう。
観念するとは、己の念(純粋知覚や気づき、洞察)を観るのであるあるから、「明らかにする」という「諦める」と同じになるのである。「諦」という漢字は「真実」という意味である。
ここで、念を観ることや諦(真実)を/として明らめることが、現在の意味になったのにも非常な興味が湧く。たぶん、かなり早い時期に日本人は、真実(諦)を「人間、あきらめのよさが肝心」のような表現に現れるものとして理解していったのかと思う。
そして、再度、興味が湧くのは、そうした「観念」を idea の翻訳語としたことである。恐らくは、仏教用語としての「観念」という言葉にある、「純粋な洞察」という意味を透かしての選択だったのではないかと思う。誰が選んだのかは知らないが、観念という言葉の中に、イデアという言葉の響きを聴いてのことではなかったかと。
完全な妄想だが、仏教のいう観念の世界、つまり如実智見の境地と、イデアの世界の境地に関連を込めたのではなかろうか。
翻訳語の観念が idea を意味するが故に、「観念」は「理想」も意味する。観念的は理想的なのである。ただ、そうした「観念」によって如実智見した世界は、 idea の世界なのではなかろうか。
ここで、idea という語の系譜も知らない私の妄想だが、元々、idea という語も「考え」という意味を持ち、「理想的」という意味を持ったのは、割に最近なのではないだろうか。つまり、idea も、純粋で根源的な内から湧くか、外から与えられる、思考ではない純粋な直感や洞察、気づきのようなものを意味していたのではないだろうか。その純粋な洞察が、本来の世界という響きが、idea から聴こえるように私は思う。この純粋な直感や洞察、知覚が「観念(如実智見)|諦め(真実)」と共通するのである。なんとも興味はつきない。
長々としてまとまりのないメモである。いつか暇をみて調べてみたいテーマである。