言うまでもなく、私は学校が嫌いなわけだが、それでも学校というものはよいものだと最近は思う。
古い友人と会った に書いたように、高校時代に嫌いだった友人が、実はいい奴だったりするからである。これが高校の同級生だから会うのであり、他の場面で会った人なら、「面倒だからいいや」となるに決まっている。
そう考えると、「同窓会」なんて行ったことないし、まあ、しばらくは行く訳もないのだが、言ってみたら、案外に「いい奴」が沢山いるのかもしれない。まあ、昔ほどの嫌悪は感じないのだろう。それに 東京を軽蔑し、京都へ去った同級生 などの消息なども気になる。
そう、本題はそこである。カルトのような人脈話について書きたいのである。
なんというか、先日あった友人とも人脈話が飛び出す。半分は「あーあ、嫌だなあ」と思っているのであるが、なんというか半分は嬉しいような気分になるのである。変な話だが、同級生がしっかりと世間で活躍しているのを聞くと単純に嬉しいのである。
いや、これも屈折があるか。「あの馬鹿が、あれくらいできるんだから、俺は……」というお恥ずかしい思考がベースにあるのかもしれない。いわば、人の成功を自分の自信にしていうという訳である。
ただ、無意識に嬉しく、自分にも自信が湧くというのも、よい感覚だと思う。
物事には「自分でもできる」と思うからこそ、「俺はやらないでいいな」と思うものがある。人が成功したのを聞いて「ああ、あいつができるんだから、俺にもできるな」と思うからこそ、「うん、俺はやらんでいいな」と清々しく考えられるのである。
これが、もし、自分ができることに自信がなかったとしたら、変なコンプレックスになって、自分が本気で望んでいる分野でもないくせに、中途半端に手を出しかねないと思う。特に、世間の目に関わる分野では、自信がないからこそ、名声欲しさに手を出してしまうことがあると思う。
これは本当にやりたくてやっているのではなく、不安で認められたいという衝動のみに基づいているので失敗しやすいだろうし、仮に成功したとしても空しさが残るだけであろう。
自信があることで、人の目線に動じなくなり、自分の楽しみを追及できる。「俺でもできるだろうが、興味がないからやめて、あいつに任せておこう」という気分はよいものである。そして、自分の興味の仕事を明確かつ具体的にできる。この点に、私には余りに不釣り合いに優秀な同級生は、多いに資してくれている。
思えば、友人は鏡である。その鏡は自分と似た像を写しつつ、逆に、細部の違いを目立たせる。その違いの中から、より詳細な自分の興味を明確にしてゆく。
カルトのような人脈話をする人間たちは、そうした自信に裏打ちされた興味の明確化をしやすいと思う。そして、だからこそ更に仕事に打ち込み、自分の専門性を高めてゆくのであろう。
まあ、私の場合はそうした無根拠な自信が私のアホウな人生を形づくっているのだから、かえってアダとも言えるのだが。
なんだか、よくわからないが、こんなところで。