2007-11-13

昼下がり、近所の鰻屋に行った。いつぞやも書いた、思い出の店である。別にどうという話もできないが、少し記録しておく。

座敷に上がり、腰を下ろす。昔は広く思えた座敷が狭い。走り回り、転げ回り、机の角に頭をぶつけたこと、その店で酔っ払って寝てしまった祖父に悪戯して、おしぼりを顔の上に載せて、叱られたことを思い出す。

特上と上を一つずつ頼む。確か、祖父は上を頼んでいた。二つを比べてみたかった。

出て来た鰻の蓋を開けた瞬間、とてもがっかりした。「蒸し」に手を抜いたのが一目みて分かったし、「焼き」も繊細さに欠けている。まあ、昼休み前ギリギリに行ったのだから、火を落としていたのだろう。そこで若いのが入ったのだから急いで仕上げたのだろう。雑になるのも無理はないか。

鰻とは「裂き」「串打ち」「蒸し」「焼き」の技である。中でも、鰻職人は「焼き」が命である。しっかりとした職人は、焦げやむらがなく息を飲む程に美しい鰻を焼き上げるのである(実際には焦げるが)。更に関東の鰻は「蒸し」が入る。カリっとした触感を認めない訳ではないが、関東人の私は、この「蒸し」が入った、ふっくらと柔らかい鰻が大好きである。

落胆しつつ、上を食べる。予想通り、ふっくらとした触感は少く、雑に塗られたタレの雑味を感じる。ただ、鰻自体は新鮮なのだろう。すっきりとした味の中に、こみあげてくるエネルギーがある。

ややあって特上を食べる。更にすっきりと雑味のない鰻である。比べてみるとはっきりと分かる。そして、すっきりとしているのに脂がのっているのが分かる。

鰻は目にいいという。気のせいかもしれないが、眼精疲労が柔らいだ気がする。そして、なんとなく食べると頭がよくなるのではないかと思う。頭がすっきりと元気になっていった。

思い出の鰻はもっとおいしかった。が、そうした移ろいを感じながらも、やはり鰻は美味しく、元気を与えてくれた。

また訪れた折には、店の人と話してみたい。十年以上も前だが、あれだけ通っていた祖父と私を憶えているかもしれない。また、あの鰻を食べたいと思う。

雑駁だが、こんなところで。