2007-11-18

食とはメッセージ

誰かが言ってそうなことだが、書いてみる。

が、結論をさらりと書かずに、こんな文書を書く経緯を書かせてもらいたい。

実は、9月からサラリーマンとなり、日中を東京で過ごした。ここで初めてサラリーマンの昼を経験し、驚いた。まともに昼食をとることが、これほどに難しいとは思わなかった。

つくづく、甘えた男だと思う一方で、極力、自分にとってベストな昼食を摂れるように努力した。そして、ある程度、値段的、味覚的、環境的にも理解できる店を見つけ、そこに通い続けた。

しかし、そこでも満足は来なかった。そして、それが自分で不思議でならなかった。「なぜ、美味しいのに、旨いと感じないのだろうか?」 「そもそも、うまいとは何だろうか」 私は毎日、その店で味わいながら、考え続けた。

一方で、帰宅してからの食事の美味しいことといったらなかった。服を楽に着替え、自室に腰を降ろし、テーブルの上に置かれた冷めきった食事を食べるのだが、これが滅法おいしくてたまらない。特に、米を口に入れて、噛みしめる一瞬前の「食べてる!」という実感が、全然違うのである。

最初は、環境がリラックスすることで全然味覚が変わるということだと考えた。同じ料理でも、楽な服装で食べた方が、おいしく感じるのは当然である。しかし、そうかと思って、実家で食べる感覚を思い出しながらランチを食べ、ランチを食べる感覚を思い出しながら実家で夕食を食べて、その味覚を考察していると、それだけではないと思い至った。

一つに水が違うのだと思い付いた。東京の水について云々しないが、やはり地元の水に慣れているのでおいしいのだろう。実家の米を電子レンジでチンしても気にならないが、昔、東京の水で炊いた米をチンしたら、臭くて食べられたものではなかった。冷たくてもいいから、臭いのはつらく感じた。

そして、しばらくは、ランチと実家の食事の差について「水の違い」として理解していた。しかし、昼食の時に、そうしたことを意識して考えながら食べていても、やはり、水だけでは説明がつかないことも多い(ただし、やはり水で説明がつくことも多い)。

ここで、当然のこととして、私が母の味に慣れているというのがある。食事を口に運んで、噛みしめる瞬間に、「うまい!」と感じるのは、まず味の予測があり、その予測の緊張の中で食物を口に運び、そして、その予測通りの味が口に広がるという解決を経験するからだと思う。音楽と同じである。

こうした、「予測(期待)」→「緊張」→「解決」というプロセスを、店では経験できない。予測や期待は、ほとんどアテにならないからである。

このことに思い至ったのは、ブリ大根を食べた時である。見た目から無意識に味を予想していたのだろう。口に運んで噛んだ際に「あれ?」っと思ったのである。予測していた味とあまりに違っていたのである。まずいのではない。ただ、予測が裏切られたのである。こうしたことが、ストレスになっているということに思い至った。

勿論、予測もできない味を楽しみたい時もあるだろう。しかし、毎日の食事では、ストレスなく、静かに、食事を味わいたいと、私は求めているということだろう。特に、新しい職場に慣れる前だったり、プロマネをしたりしてストレスがあった訳で、ストレスなく静かに食事をしたかったのだろう。

こうした音楽との比較の中から、味について更にアイディアが広がった。

食とは、メッセージとして成立しているかどうかなのだと感じた。食事ということ、そのものの全体を味わっているのである。そして、その全てにしっかりとした関連があれば、私たちはそれを理解できて、安心して味わえるのではないだろうか。

綺麗な音、いい音をならし続けても、音楽にはならないのと同じで、食事もただ美味しいということは実は問題ではない。どちらも人間から人間へのメッセージなのであり、そのメッセージがきちんと成立していたときにのみ、味わい深いものとなる、ということだろう。

東京の食事はメッセージとして成立していないということになる。確かに食物は提供されている。調理もされているとも言える。しかし、その全体が、そのメッセージが成立してはいない。ただ、ひたすら、生物の死骸とカネを効率的に交換しているだけである。ウェイトレスはひたすらにせわしなく動き回り、料理人も「火」を使うことはなく、私たちは焼きたて炒めたてを口にすることはできない。

しかしながら、東京において、まともに「火」を使って調理をして、メッセージとして成立している店で食事などとろうとしたら、これは大変なことである。切りたての食材を、静かな環境で、焼きたて、炒めたてで食べられたら言うことはないのだが。なんだか、とても残念である。

なんだかいい加減だが、こんなところで。

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