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私は人の顔と名前を覚えるのが苦手だった。異常なほどと言ってよいと思う。会ったことすら忘れてしまい「あ、はじめまして」とか言ってしまうのだから。
まあ、人に興味がないのだろう。最低だ。私の友人の天使のような女の子は、バイトしているときに客で来た人の顔だって分かるらしい。それだけ人を大切にして生きているのだろう。素晴らしいことだ。
だから、本当に人の顔を憶えるには、以下のような小細工を弄さず、出会う人一人一人に真剣に向き合い、その人のことをしっかりと思うことである。つまり「俺は人を憶えるのが苦手で」などとぼやかず、性根を叩き直すことである。具体的には度々「あの人はどうしているだろう」「私に出来ることは無いだろうか」と思うことである。自分勝手に自分のことしか考えていないから、人様の名前も顔も忘れるというフザケタことができるのである。因果応報。自業自得。そういう人間には、そういう人間なりの未来が訪れると思う。
しかし、性根の方もそう簡単に叩き直されるものでもない。性根をコツコツと叩きつつ、私は未だに小細工を弄している。
私が習慣としている小細工がある。人と会ったときには席順と名前を描いておくのである。そこに、その人のエピソードや特徴などを書き込んでおく。できれば顔の絵も。それと余裕があれば自分の席から見た「景色」(人の顔を含む)をイラストにしておくのもよい。こうしたものをチラチラと眺めれば忘れることは無い。人間の空間に対する記憶力を利用するのである。最近では持ち歩いているメモ帳にこうした席順を書くようにしたので(少なくともミーティングのときには必ず書いている)人を忘れるということも無くなった。逆に最近では自信があるほどだ。ただ、その下手糞な似顔絵は誰にも見せられないのでメモ帳の扱いにはヒヤヒヤする。
実は以前にもそれなりに効果のある対策を練っていた。それは人をパターンに分類してしまい、そのパターンの内部での差異を利用して人を識別するというやり方である。人間の認識とはつまところパターン分類と差異の識別なのでそれを利用するというわけである。
最初に言っておくとこれは失敗だった。というのは原理自体は悪いものではなかったと思う。ただ、具体的な「パターン」の選定に問題があった。
まず、方法を説明しよう。始めに一定の分量の「モデル」を準備する。まず、その顔が憶えやすい必要がある。また、その人たち同士が何かしらの関係性を持っていたほうが記憶には残りやすい。そして、新しく出会った人を、その「モデル」に紐付けるのである。同一のモデルに紐付けられた人はその人同士の違いに注目してゆく。例えばAさんとBさんがモデルIに紐付けられていたとする。そしてAさんが野球が大好きだとしたら、Bさんにも「ところで野球は好きですか?」などと訊いておく。もしBさんが好きではないと答えたら「ふむふむ、こっちのBさんはAさんと違って野球は嫌いか……」などと考えてゆく。そしてモデルIの名前とAさんとBさんの名前の響きを関連させる。
この方法は効果があった。大学生の頃、様々なサークルに参加していて誰が誰だか分からなくなっていた。バンドくらいならメンバーと密接だからいいのだが、合奏をしたり、歌や踊りの伴奏をしたりすると、誰が何を踊る人で、自分はその人に何をすべきなのなのだかさっぱり分からなくなってしまう。私はこの方法でどうにか何をしている誰誰さんかを記憶していた。
この方法は悪くなかったと思う。ただ、そのパターンのモデルが悪かった。私は記憶のモデルに相撲取りを使っていたのである。そう、私は若い女の子を武蔵丸やら若乃花などに関連させて記憶していたのである。名前も「武蔵丸 鈴木」などと言って憶えていた。記憶というものは予想外かつ残酷なほどに滑稽なものを映像化すると憶えるものだ。二十歳そこそこの女の子を相撲取りと関連付ければ忘れるはずも無かった。そして「曙がブレリアの右側の女の子」「おお、三日の夜は三役揃い踏みだ!」などと紐付けて映像化すれば、相撲取りと音楽という予想外に滑稽な映像に忘れるはずも無かった。まあ、結果としてはオーライだった。
この方法に色々と問題があるのは明らかなので詳細は省こう。私はこの方法をもう使っていない。ただ、もしもこのパターン分類を使うのならば芸能人を使うことをお勧めする。芸能人の顔に紐付けておけば、いざ酔っ払って「AはIに似ている」などと言っても問題には成りえないからだ。というか、普通に人は若い時期に芸能人の顔を覚え、自然に出会う人を芸能人に紐付けている。私が芸能人に疎いから相撲取りに紐付けるというアホな行動をしたのだろう。普通に「AさんってIに似てるよね」なんて話してれば記憶に定着する。
ただ、それでも相撲取りの顔のヴァリエーションと想起時の滑稽さは惜しい。芸能人では「三役揃い踏む」ようなインパクトのある映像を与えてはくれないだろうから。と、こんな失礼なことを考えるのだから、俺は本当に性根が腐っている。