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技術には道具にあるような手応えがない。それはひたすらに進化に駆り立てる空虚な仕立ての連続である。
道具の手応え
道具。それは本質的に《身体》の延長である。それは手応えの内に私に握られる。手応え。それは手に応える。道具は手に握られつつ、手に応える。手は握りつつ、道具に握られる。そうして延長される《身体》。完全なる把みと握り ── つまり《把握》 ── の手応え。それが道具である。
道具がうまく使えるということはコツを押さえるということである。コツとは《骨》に他ならず、その芯=心を押さえるということである。それは無意識な《手探り》を通してのみ把握できるものである。エチュードは道具を覚えるのに役立たぬとしたら、それが手探りを残していない時である。
技術の気配
一方、技術に《手応え》はない。《技術》とは個別の経験の積み重ねの帰納による、一つの《論理》であり《制度》である。それは個別の経験を集積しつつ、利益と興味の下に平均化する。人の《なぜ》の問いは内部において無効だ。人の問いは《いかに》に集約される。
把握を許さぬ技術は常に私の《気配り》を要請する。無意識の気配りを受ける技術はやがて《気配》を持つ。気配を持った技術は既に私にとっての《他所の人》となってくる。そして私は常にその他人からの《眼差し》を感じる。眼差される者は、無意識にその眼差しから予め前渡しされた《責め》を感じ、眼差しを恐れるままに、その《制度=論理》を無意識に内面化してしまう。こうして技術は私を支配する。
技術の気配に人は支配されてゆく。技術とは場の空気の際たるものだ。場の空気とは、とりも直さず、その《場》に《居る》者の《眼差し》への恐怖である。その《責め》は予め前渡しされており、個人はその《制度=論理》を無意識に内面化する。無意識に内面化した《論理=制度》への疑問は問われることはない。それは、まさに場の《気配》そのものであり、既に《場》自体が《他所の人》のように他所他所しく、私を眼差しているのだから。
立前としての進化
技術は常に《進化》を要請する。《なぜ》を問うことなく、その《論理=制度》の内部にて、ひたすらに《いかに》を問い続け、それを進化させることを《駆り立てる》。技術の《論理=制度》は内面化し続け、《進化》が私の唯一の目的となってゆく。本質的には無意味に、技術に習熟し、技術を改善させてゆくことを技術は駆り立てる。
技術は何かを創り出すことではない。常に手応えなく、何かを《組み立て》《仕立てる》ことである。そこに《なぜ》の問いは無効である。技術においては、ひたすらに次の《よい仕立て》のために、《仕立て》が仕立てられてゆく。
よい糸はよい布のために仕立てられ、よい布はよい服のために仕立てられ、よい服はよいファッションのために仕立てられ、よいファッションはよい異性獲得のために仕立てられ、よい異性獲得はよい結婚生活のために仕立てられ、よい結婚生活はよい老後生活のために仕立てられ、よい老後生活はよい死のために仕立てられ、よい死はよい死後のために仕立てられ、よい死後はよい生れ変わりのために仕立てられ……。全ては、何かより善きものに役立てられ、より良いものに見立てられるようにして、仕立てられる。
もし、生きることが《技術》に基づいていたら、つまり組み立てによって仕立てられていたとしたら、それは恐ろしく虚しいことである。前には組み立て仕立てあげられたものしかない人生とは、まさに立前の人生である。しかし、技術は生きることはそうしたものであると責め立て、進化へと駆り立てる。
こうして私達の人生から《手探り》は奪われる。ただ物事は次から次へと仕立てられ、手応えは与えられることはない。次から次へと技術は進化し、私達の進化を仕立てる。手応えの中で身体は拡張されることはないどころか、身体は技術の眼差しに責め立てられ続け、萎縮し続ける。《世界》はよそよそしく《進化》を求める眼差しで私を責め立て続ける。