2008-06-13

秋葉原無差別殺傷事件はテロではない

秋葉原無差別殺傷事件は「アキバからの攻撃」でも、「下流」による「上流/主流」への攻撃ではない。それは「アキバへの攻撃」である。テロというには難しい「屈折」がそこにはあると思う。

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今回の通り魔事件に対して、「秋葉原オタク文化」と「格差社会へのテロ」を関連させた論調を見ることができる。

例えば東浩紀はこう語っている。

いまや若者の多くが怒っており、その少なからぬ数がアキバ系の感性をもち、しかも秋葉原が彼らにとって象徴的な土地になっているという状況があった。したがって、その街を舞台に一種の「自爆テロ」が試みられたという知らせは、筆者にはありうることだと感じられたのである。 (朝日新聞2008年6月12日「絶望映す身勝手な「テロ」 秋葉原事件で東浩紀氏寄稿」より

全体としての考えには同意するものの、ここの表現には違和感がある。もしも、加害者にとって秋葉原が自分の所属する土地であるならば、そこで自爆テロを行わないだろう。いかにも不用意なたとえだが、イスラム原理主義者がメッカでテロを行うだろうか? それはありえないことだろう。

なぜか? それは準備された殺戮が行われる場合には「こいつらは死んでもいい」という考えが必要だからである。衝動的な犯罪ならいざ知らず、準備が必要な犯罪にはそれをさせるだけの「恨み」が必要である。

単純に秋葉原なら目立つという理由だけで、秋葉原オタク文化の人間が秋葉原で犯罪を犯すことはないだろう。準備にコストが掛かっている今回の事件では尚更のことだ。彼はわざわざ秋葉原に向かった。六本木でも渋谷でもなく、新宿でも銀座でもなく、である。

加害者は明確に「秋葉原」に攻撃を加えた。つまり、秋葉原の人間を葬ってもよいと考えていたのである。

しかし、どう憎んでいたのか?

これには二つの可能性があると思う。一つは加害者が秋葉原オタク文化とは最終的には相容れず、結局は他人として「殺してもいい」と考えた可能性。もう一つは、彼が自らを秋葉原の人間と感じ、ある種の自殺として「殺してもいい」と考えた可能性である。

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ここで秋葉原オタク文化を私なりに規定しておく必要があるかもしれない。簡単に言えば、それは「主流」へのアンチテーゼとして図式化できると思う。それは「下流」であり「非モテ」であり「ひきこもり」であるといえる。カネも異性もリアルな交流も生まれない、ある種のサブ・カルチャーである。アキバとは、こうした「現代若者の空虚さ」の象徴である。

そして秋葉原とが主流へのアンチテーゼであると考えられるからこそ、アキバ系若者の犯罪がテロとも見られる土壌が醸成されるのである。この文脈において「主流」の側からは「抑圧」の論理が生じる。ゲームやアニメ、そしてネットは、常に抑圧の対象である。

「ゲーム脳」「ネットの有害情報」「アニメの悪影響」という言説は、イスラムをよく知らぬおっさんのイスラム批判に似る。いわく「あんなものがあるから、こんな事件が起きるのだ」。こうして文化によるカテゴライズは、巧妙に政治・経済的な弱者抑圧を隠蔽するのである。そして「主流」は自らの無謬性を保持しつづける。

しかし、私がここで話したいのは、今回の加害者がそのアキバを攻撃したということである。繰り返しておくが、彼は六本木や渋谷、新宿や銀座を攻撃したのではない。いわんや、霞ヶ関でも皇居でもない。もしも彼がそうした土地を攻撃したのならば、あるいは「テロ」とも言えたのかもしれない。

問題は、アキバ系に属すると判断される人間が、アキバの人間を「殺してもいい」「死んでもいい」と考え、犯行に及んだということである。彼はアキバ系の「現代若者のの空虚さ」を攻撃したのかもしれない。ここの事柄の消息をもう少したどっておきたい。

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なぜ彼は、アキバの無辜の人々を殺せたのか。

一つの可能性は、彼はアキバに救いを求めたのかも知れない、ということである。そして「裏切られた」のかもしれない。彼はネットに書き込み、アキバに通い、幾ばくかの言葉や物品と金銭を交換した。しかし、そこは救いの地ではなかったのかもしれない。

行き交う秋葉原の通行人の無関心は、ネットの画面の沈黙は、彼の目にどう映ったのだろうか。「裏切り」ではなかったろうか。挫折と失望が、やがては殺意を芽生えさせ、殺意は冷たい沈黙という栄養を貪りつづけ、餓死することがなかった。加害者自身、意識的にしろ、無意識的にしろ、この殺意の飢え死にを求めていただろうが。

孤独に苦しむ子供が、親を殺すような心理がそこにはあったのかもしれない。人は応答を求め、つまりは愛を求めて、その人を殺すことがありえる。が、そうした犯罪を人はテロとは呼ばない。

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もう一つの可能性を考えてみる。すなわち、加害者は自分はアキバの人間と思ったのかもしれない、そして、そうした自分をこそ抹殺すべきと考えたのかもしれない、という可能性である。

加害者が、沈黙するケータイや去ってゆく通行人を眺めながら、逆に、そうして無関心を装う人々こそ、自分だと感じたのかもしれない。加害者はネットや秋葉原の路上を、匿名のままに素通りしていたことだろう。そして、自分のような孤独を抱える人を見かけても、何の応答もせず、無関心に過ぎ去ったことだろう。自分がされているのと同じように。

人に興味がない人間が、人の興味をひくことはない。彼は人の無関心に苦しみつつ、自らの無関心にも苦しんでいたのではないか。彼は愛を贈られることもなかったが、愛を贈ることもできなかった。孤独から救われる方法は一つである。無言の誰かの孤独に応答してあげることである。彼はこうしたことに気付いていたのではないだろうか。

そして、彼は犯行に及んだ。

彼は自分への無関心が、自分の人への無関心と対照的であることに気付いていたのかもしれない。この悪循環に気付いていたのかもしれない。しかしながら、いや、だからこそ尚更に、彼の殺意は巨大なものになった。

彼は自分のような存在をアキバに見てしまったのかもしれない。その救いようの無さを感じたのかもしれない。自分がアキバの人間であり、その空虚さを理解しつつも、他の場にはいきようもなかったのかもしれない。だからこそ、渾身の力を持って、彼はアキバを破壊した。ここの時の「こんな奴らは死んでもいい」には自分がすっぽりと入っている。

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結局のところ、私には加害者と秋葉原との距離が分からない。が、今回のアキバ系によるアキバへの攻撃は十分に考える必要があると思う。

以前は社会の片隅に棲息したに過ぎないアキバ文化は、いまや十分に成熟した。メインストリームのメディアに一切触れず、アキバ系の情報だけで暮らすことは現在十分に可能であり、一定数が存在することと思う。これはスポーツやJ-POP、芸能情報、ドラマや映画などから遠いところで暮らす人々が、確固として存在することを意味している。いい加減に「主流」はこうしたことを考えたほうがいいだろう。

一方で、「主流」から迫害されるアキバ文化という視点だけでなく、アキバ系として暮らす人間自身にとってのアキバ文化ということも考える必要性を感じさせる。つまり、アキバの中から「アキバ系として生きることはどういうことか」を問い直す必要が出てきていると思えるのである。

これはオウム信者自身とオウムとの距離のようなものかもしれない。ただし、このことで私はオウムとアキバ系が似ていると言いたいのではない。ただ、メインストリームとのこじれの問題と、互いの無反省のことを言っているのである。オウムの場合で言えば、社会がオウムを拒絶したために、オウムから脱退した人が再びオウムに戻らざるを得ないという状況があると聞く。これはオウムに内省がなく、また、同時に日本社会の側にも内省がなかったことによる不幸である。このことから、日本社会は常に「オウム的なるもの」に怯えることとなり、この痛手は回復不可能なもののように思える。

こうしたアキバ社会の内省を、日本社会の内省と組み合わせてゆくことが求められているように思われる。互いが存在を確認しつつ、共存する道は現在ならそれほど難しくはないだろう。先の図式的なアキバ理解が打破され、所得格差や世代差による断絶ではなく、日本人の多様性を確立することを私は求めたい。