2008-07-08

"科学離れ"な下の世代の考え方

「いっぱい勉強して、どこでもドアを作ってね」 家庭教師先の母親は、子供の意欲を焚きつけようとこう言った。

しかし、子供の答は意外だった。

「いや、あんなものはダメだよ。できたとしたらエネルギーを大量に消費するだろうし、簡単な移動ができてしまうと失われてしまうものも多いでしょ。無人島が無人島でなくなって環境は汚染されるし、犯罪に利用されたら大変だよ」

僕は数年年下なだけの生徒の台詞を聞いて、個人としての知性や鋭さというよりも、世代のギャップを感じたものだった。少なくとも私はそういう視点でどらえもんを見たことはなかったし、同世代でそういう批判をしたものは記憶になかった。割にひねくれた友人だらけだったが「どこでもドア〜? 欲っしぃ〜。作って〜」だったと思う。

だから母親の台詞を子供だましだなと19の私は感じたが別に違和感はなかった。人は常に新しい便利なものを生み出し続けてゆくものだという考えは、染み付いていたのだと思う。

言い換えれば、私はぎりぎり科学信奉の世代であり、彼は科学離れの世代と言えるかもしれない。科学について彼と話したのはとても印象深かった。私の世代にはまだ「原理を探求したい」がごく少数生き残り、一方で「できるなら作りたい」という考えが普及していたように思う。

しかし、彼らの世代には「そんなことをして何の意味があるのか」「すでに技術的・物質的には十分だ」という視点があった。貧困の問題にしても、物質や技術の問題ではなく分配・政治の問題であると言う。そんな彼が理系に進む理由、それは「発明」「進歩」ではなく「保守」「維持」のためなのである。そして、省エネ技術を追求する前に、ライフスタイルを再考しろよ、先進国民、というわけである。

私はにわかに信じられなかった。彼の発想にではない、そんな発想をしている本は山とある。そうではなく、彼の語るテンション、「子供らしくない」そのテンションに驚いたのである。私の世代が「新しい原理を見つける」とか「偉大な発明をする」というテンションでなかった以上に、彼らの世代のテンションは冷えきっているのだろう。

「科学離れ」という言葉がある。この言葉が示すのは、現代の若者が科学に興味がないということであり、かつて科学に熱中した人々がいたということであろう。そんな子供が現代にいたら逆に気持ち悪いのかもしれない。

時代が変われば子供も変わるのだな、と感じた。その時は。いまはやや違う。がそれはまたの機会に。