2008-07-14

情報と向きあうときに気をつけること

情報と付き合うときに、私は二つのことに気をつけている。一つは断片的な情報を避け、体系的な情報に取り組むということ。もう片方は、客観的にではなく、自分の問題意識に従って情報と向きあうということだ。

情報は麻薬になりえる

なぜ、こうしたことを習慣にしているのか。その答のうちの一つは、情報とは麻薬にもなりうるということだ。情報とは無限にあり、そうした無限としての情報は常に不毛をもたらす。あたかも不死がまさしく生の意味の否定につながっているように。

古人はこのことを明晰に語った。いわく、一粒の麦、もし落ちて死なずんば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。 もしくはより簡潔に、有終の美、と。この言葉の意味するところ、それは美や意味 ―― つまり ”実り” ―― とは有限においてはじめてありえるということ。すなわち無限には美も意味もなく、ただひたすらに不毛が広がるということだ。無限のイメージを映し続けるであろうディスプレイは、まさに無限という名の不毛の大地へとつながっているのである。

と、こうした与太話はこの辺にしておこう。つまり、情報摂取は中毒になるということだ。何も生み出さぬ不毛なインプットは簡単に日常化し、常態化し、習慣化し、貴重な時間を奪い続けることだろう。無限への欲望は ―― いや、そもそも欲望とは無限だが ――人を蝕み続ける。己の不毛さを隠蔽したまま。

「いつか役に立つ」? 本当に?

情報はいかにして人を魅了するのか。それは不安を煽ることに始まる。全ての詐術と同じように。健康、富、仕事、人間関係、学習……こうした事柄に完璧な自信のある人は多くはない。こうした問題を少しでもうまくこなしてゆきたい。それも、ごく簡単な労力で。こう考えるのも当然のことである。しかし、まさにそこから詐術は始まる。

「待ってくれ」 ここでこう主張する声もあるかもしれない。「情報は役に立つはずだ。もちろん、いくつは実際の役に立つ状況が訪れないかもしれない。それでも、いくつかは知っておいてよかったと思うことがあるかもしれないじゃないか?」

「いつか役に立つかもしれない」。この言葉ほど成功した欺瞞も少ない。なにしろ、この欺瞞なしには、これほどの高度な消費社会は訪れなかったのだから。

しかし、このトリックを打ち破ることはたやすい。ある目的を達成するのに、いまこの場で何をすることが本当に投資になるのか? この問いを考えてみれば、情報を得ることが有益であるという欺瞞ははっきりとする。確かに情報が役に立つときもある。しかし、本当に大切なのは、成果を出すことなり、よい習慣を身に付けるということであるはずだ。それは「みせかけの投資」、投資に偽装した時間の浪費に他ならない。

いつか役に立つかもしれないという詐術は、人生を非個性的かつ時間的に無限するような誤謬に基づく。交換不可能で、ただ一回限りの、それも有限な時間しか持たぬ人間が、いつか役に立つかもしれないことために無限の情報を前にして時間を浪費することほど愚かなことはない。

更に言えば、情報を受け取ることが習慣化したときに、「いつか」は絶対にやってこない。なぜならば次々と魅力的な情報はやって来て、成果やよい習慣を生み出すだけの時間を与えてはくれないのだから。本当の投資は、例えば健康への投資が人生での活発な時間を増やしてくれたり、勉強が知力を高めるというように、必ず確固としたリターンがあるものである。

主体的・戦略的に情報を摂取する

発想を逆にすることだ。不安を煽られる前に、自分で主体的に率先して問題解決の努力をすることである。まず健康なら健康という目標を明確に立てて、 そのために一定のコスト(時間と費用)を充て、情報を選別し、吸収することである。そして、一度、情報を得た後には、そこから導かれた「仮説」に従って実際の努力を一定期間する他はない。その間には他の情報は「ノイズ」となるだけなので遮断してしまった方がよいくらいだ。そして 成果をみて、その努力や習慣を継続するか、立脚した仮説が誤っていたかどうかを再考することになる。

情報とはつねに過去の事実であるか仮説に過ぎない。それが有益であるのは、実際にそれを実行に移したときだけだ。効率を、生産性を高めることを謳う情報は次々とやって来る。大切なのは、どれか一つを自分のために実行することだ。

僕が最も尊敬する友人の一人に「どうやれば陸上競技で強くなれるか」と訊くいたことがある。彼はこう答えた。「どれが一番優れた練習法かは分からない。たぶん、答はない。ただ、一つを決めて、それにのめり込み、長い時間続けられた人は必ず強くなる。……普通は故障とかしちゃうんだけどね」

問題は目的もなく情報を摂取・蓄積することにある。情報を必要とするときは、自分の問題意識にそって主体的に摂取した方がよい。受動的に情報を受け取る習慣の中で曖昧に決断をしてゆくよりは、先手を打って自分に必要な情報を見定め、主体的に情報と付き合う方がよい。通常は「遮断」の方がよい。

「いま」を生きられない"情報中毒者"

「それでも、私には情報が必要なんだ」ニコチン中毒患者がその人にとっての煙草の必要性を語るように、 "情報中毒者" もまたその必要性を語ることだろう。「少しでも効率を上げようと努力しているんだ。そして、これが一番手軽な息抜きなんだ」

こうした "情報中毒" の語り口は、ニコチン中毒者のそれと相似をなす。「私にはニコチンが必要だ。少しでも仕事に集中するための努力の一つなんだ。そして、これが一番手軽な息抜きなんだ」

そう、彼にとって情報は「必要」だ。あたかも、ニコチン中毒者の煙草のように。それが不必要でもあり、時に害ですらありえることは隠蔽されることだろう。

それでも私たちはこう問わずにはいられない。「なぜ、"それ" が必要なの? 本当に今 "それ"が必要なの?」こう問い続けることが、不必要なアディクションを終息させ "健全" が取り戻されるだろう。 そう、なぜ "それ" が、まさにいま必要なのか? ストレス? まさか。本当に "それ"がストレスを解決する? そもそも解決したことがあった? つまり、"それ" によって気分が晴れたなどということが? それが役に立つ? いつ? どうして、それが役に立つと思う? なぜ、そんなに追い込まれているの? そうした状況に追い込むようなストレスとは一体なんだ? そもそも、それは一体 "生活" なのか?

こう問う中で更に問題が見えてくるかもしれない、つまり、問題を解決する努力を放棄しているということ、受け身に生きているということ等々が。大切なのは、しかしながら、答を出すことではなく ―― 結論なんてものはいつも陳腐なものだ ――、むしろ、こうした問題を問い続け、今という時間を自分の力で生きてゆくということである。

*

大切なことは、主体的に生きるということ、選ばされているのではなく選ぶこと。それが私にとって ―― 他の誰でもなく、ただ今ここにいる私にとって ―― 何の役に立つのか? と問うこと。受動的に情報を受け取っている時間があるのなら、自分の問題意識や強みを掘り下げたり、反省を行った方がいい。