2008-07-31

啄木: テロリストの歌と詩、そして「時代閉塞の現状」

啄木の歌はひやりとさせるものがある。

以下「哀しき玩具」:
どんよりと
くもれる空を見てゐしに
人を殺したくなりにけるかな

やや遠き ものに思ひしテロリストの
悲しき心も
近づく日のあり

誰そ我に
ピストルにても撃てよかし
伊藤のごとく死にて見せなむ

更に「ココアのひと匙」という詩は:

われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らんとする心を、
われとわがからだを敵に擲げつくる心を――
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。

はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触りに
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。

「時代閉塞の現状」

時代閉塞の現状はなんといっても4節が面白い。啄木は時代閉塞の現状を描写し全精神を明日の考察へと向けねばならないと説いている。抜粋してみると:
  • 若者の内向的、自滅的傾向は「時代閉塞」の結果: 「今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。[...]今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積してきたその自身の力を独りで持余しているのである。[...]今日の我々青年がもっている内訌的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。——そうしてこれはじつに「時代閉塞」の結果なのである。」
  • 「今日」に役立つ人間のみを養成する教育: 「ここに一人の青年があって教育家たらむとしているとする。彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。」
  • 資本のない発明は無価値: また一人の青年があって何らか重要なる発明をなさむとしているとする。しかも今日においては、いっさいの発明はじつにいっさいの労力とともにまったく無価値である——資本という不思議な勢力の援助を得ないかぎりは。
  • 学生の就職口の心配: 今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなったということではないか。
  • 「遊民」の増加: 日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次その数を増しつつある。今やどんな僻村へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。
  • 全精神を明日の考察に傾注しなければならない:「今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望やないしその他の理由によるのではない、じつに必至である。我々はいっせいに起ってまずこの時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷めて全精神を明日の考察——我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである。」

そして5節では、その戦略が考察される。彼はまず以下の三つの失敗を検討する:

  1. 高山樗牛の個人主義: 「人間の偉大に関する伝習的迷信がきわめて多量に含まれていたたとともに、いっさいの「既成」と青年との間の関係に対する理解がはるかに局限的であった。[...]彼が未来の一設計者たるニイチェから分れて、その迷信の偶像を日蓮という過去の人間に発見した時、「未来の権利」たる青年の心は、彼の永眠を待つまでもなく、早くすでに彼を離れ初めたのである」
  2. 宗教: 「我々の心にまぎれこんでいた「科学」の石の重みは、ついに我々をして九皐の天に飛翔することを許さなかったのである。
  3. 純粋自然主義との結合

以上の失敗の上から、啄木はこう言う:

我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。いっさいの空想を峻拒して、そこに残るただ一つの真実——「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。

そして、その運動の中で、文学の精神が復活するのではないかと結ぶ。

文学——かの自然主義運動の前半、彼らの「真実」の発見と承認とが、「批評」として刺戟をもっていた時代が過ぎて以来、ようやくただの記述、ただの説話に傾いてきている文学も、かくてまたその眠れる精神が目を覚してくるのではあるまいか。なぜなれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時「今日」のいっさいが初めて最も適切なる批評を享くるからである。時代に没頭していては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。