2008-07-31

技術の発達が価値体系を変革する

発達したテクノロジーがそれ自体を支えていた価値観を破壊する。こうした現象が様々な分野で見られるようになるだろう。

これは全世紀初頭に写真が絵画に与えた影響と基本的に似ている。しかし問題は更にラィカルだ。いまや複製技術ではなく、合成技術の時代なのだから。

マトリックスで終わったアクション映画

以前「マトリックスでアクション映画は終わりを迎えた」と俺は言ったと思うが、それと同じ事が音楽で起こりつつある。

マトリックスの件をもう一度書いておくと、何の違和感もなく人の「アクション」として3Dの駆使を利用する映画の到来によって、通常の意味での「アクション映画」は「無意味」なものとなってしまった。無限大の能力は、能力という概念そのものを破壊してしまう。どんな「アクション」でも可能なとき、人はそれをアクションとは思わない。つまり「面白くない」のだ。

それ故、今後、映画は「回帰」が求められることになるだろう。それは演劇的なものであり、ドキュメンタリー的なものとなると思う。

機械の普及が破壊するもの

同様に音楽・音響テクノロジーの発達とそのポップカルチャー化が「ポピュラー音楽そのもの」を破壊しつつある。

安定した音程・リズムなどが、機械によって何の違和感も無く音楽として普及し、そのテクノロジーは最終的に人の声の合成にまでに及びつつある。ヴォーカロイドの人気と普及が更に進めば、ヴォーカロイドによる無限の自由によって、ポップそのものの価値観そのものが破壊されてしまうだろう。

広い声域、正確なピッチ、安定した音の持続といった”音楽家”の技術は、この技術によって無効になってしまうだろう。「機械のような」技術を求めた人は去ってゆくしかない。機械が登場したときには。

複製技術、つまり録音再生機器は演奏ごとに演奏家の存在を必要としたが、合成技術にとっては原型となる演奏家が一人、それもデータとして保存されればよい。あとは不要なのだ。

人間が勝てないチェスとサッカー

この問題はスポーツの分野にもおよぶ。 ロボットの究極はチェスや将棋の世界チャンピオンにAIが勝ち、 サッカーや野球の世界優勝チームにロボットが勝つという事態を生むだろう。

ロボコンの目標をご存知だろうか?それは、2050年までにサッカーのワールド カップ優勝チームに勝つ完全自律型のロボットを作り出すことだ。完全自律型のロボットが、人間のチームに勝つとき何かが起こるだろう。そこでスポーツに存在する「勝ち負け」という考えそのものが馬鹿らしくなってゆくだろう。

人はここに至って初めて音楽や映画、スポーツなどを反省するかもしれない。そして、それまでに無批判かつ無意識に想定していた、勝敗・正確さ・力量といった価値観そのものを疑うということにまで至るだろう。

音楽や映像が、「電子の戯れ」「デジタルなデータ」であるのだとしたらそこに意味はあるのだろうか?時代は既にこう問うところまで進んで来たのだろう。スピーカーの音、ディスプレイの光だけを私達は「受信」しているのだろうか?「再現」ではなく「合成」であったとしても、同じ電子データが受信されればいいのだろうか?そこに潜む「気味の悪さ」とは、単に「慣れ」の問題に過ぎないのか? それとも……?

残された選択肢

残されるのは3つの選択肢だ。

  1. そのまま機械が「文化」の担い手になるのを傍観する
  2. 「文化」そのものを単に放棄する
  3. 本当に人間の精神的なものに目を向ける

さあ、どうする?

俺はここで技術に対し、何と言うか? それは「がんがん、やれ!」だ。行くところまでテクノロジーが行けばいい。その究極の「完成」が人間に真の「苦境」を厭でも気が付かせられるように。

すぐに技術化された動物になった人間で、街はあふれかえることだろう。不毛なスピーカとディスレイとの戯れで無為に過ごす人も溢れることだろう。ここで浅田を引くのも恥ずかしいが、彼はこう語っている。

いつどこにでも待機していて、どんな問いにも打てば響くようにこたえてくれるメディアは、あの喪われた半身たる母の理想的な代補であり、それと対をなした子どもたちは、電子の子宮とも言うべき閉域の中にとじこもることができるのだ。言いかえれば、メディアは意地悪く身をかわし続けたりはしない親切な鏡であって、テクノ・ナルシシズム・エージのひよわなナルシスたちは、それを相手に幸福な鏡像段階を生き続けるのである。幸福な、つまりは、外へ出るための葛藤の契機を奪われた、ということだ。こうしたエレクトロニック・マザー・シンドロームこそ、ソフトな管理社会をめざす権力にとって絶好の手がかりであり、ひるがえってみれば、スキゾ・カルチャーへ向かう道に仕掛けられた最大の罠であると言えるだろう。(浅田彰『逃走論 スキゾキッズの冒険』)

最大の罠は成功することだろう。それもまた仕方のないことだ。人類が「機械のように」正確で力強い技術を求めたのだから。まあ、そうした地球を覆う歴史の流れには「馬鹿らしい」とは俺は言うが。

thanks

この記事は2008年6月24日の友人 I へのメールがもとになっています。そのメールを受信してくれた彼に感謝します。

notes

Lifelike animation heralds new era for computer gamesでは見た限りほとんど人間なCGアニメーションの映像がみられる。