2008-08-23

万年筆におさらばした理由

文具について書いていると、紙についても書いておきたくなった。そして、その紙への愛の泥沼が、逆に僕が万年筆を離れる理由になった。

紙に意識を持つようになったのはごくごく最近のことだ。ゲルインクペンを利用していた頃に紙に興味なんてなかった。安いノート、ルーズリーフ、コピー用紙で十分だった。ゲルインクペンのボールは滑らかに転がりつつぬるぬるしたインクを溢れさせ、そうした紙の表面の違いを乗り越えて逞しく進んで行ってくれた。

万年筆は違う。万年筆は金属のペン先が紙の表面をなでる。指先から紙の表面の感触が直に伝わる。長い時間書いていると、この感触が指に残り、左の側頭部の後ろの方にこびりつく。その金属が紙を擦る音が耳に残る。紙とペンが悪いと不快でたまらなくなる。指が、脳が、食事を求めるようにいい紙を求めてしまう。場合によっては下敷きまで欲しくなる。実際によいペンや紙を見たり触ったりすると涎がでるような生理的な反応まである。

万年筆を使ってから、筆記用具は人差し指の延長だと強く感じるようになった。気がつくとペンが自分の体の一部のようになった感覚に襲われる。僕は右手がペンになっていて、道具なしで紙に文字を書いているという夢を何度も見ている。肘から先、あるいは肩から先、あるいは臍から上の肩を中心とした右上半身がペンになっていたりする。

僕がペンという男性であるとき紙は女性だ。ペンという獣であるとき紙は柔らかい子羊だ。より滑らかで柔らかく、より洗練されていて無駄がなく、しなやかでありながら表面的にはかすかな脆さを見せる紙が欲望される。

その紙にペン先が触れる。溢れ出すインクの上で滑らかにペン先はおどる。その運動の痕跡は筆跡として刻まれ、描かれた線は文字として永遠のものとなるだろう。ああ、至福の一時である。

と、いうのはあくまで妄想の世界の話で、金もないのでこの欲望は十分に追求されなかった。そうホイホイと紙やら万年筆やらを買ってはいられない。こりゃやってられんな、と万年筆の世界におさらばした。

もういいよ、俺は水性ペンで。