2007-07-03

犬のように

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先日、彼女と散歩していると、犬がロープを絡ませてしまい、身動きが取れなくなっていた。誰かのいたずらではない。犬はロープが縛り付けられたポールを同じ方向に回り続けてしまい、ロープが棒に巻き付いてしまったのだ。

身動きのできない犬は、悲しそうに見える。

犬は庭にいて、私との間には柵がある。「犬のロープがこんがらがってますよ」と家の人に伝えるべきか? それとも無言で柵を乗り越え、犬を助けるか? 考えはしたが、結局、私はただ犬を眺めていた。

「おい、反時計回りに回れ」と私は言ってみた。

もちろん、通じない。

一瞬、反時計回りに歩いて、ロープに余裕ができたかと思うと、すぐに犬は時計回りに歩き出してしまう。

犬の無知が、いかにも歯痒い……が、そういう愚かさを見るのは、なんというか楽しく、なんというか虚しい ―― 人の営みも、かの犬の如きか、と。

ただ、逆に、そうした犬に羨ましさを感じもする。犬は、己の愚かさを苦しまないのである。

いや、勿論、首がしまれば苦しいし、動けないのはストレスである ── しかし、身動きができなくなってしまう自分の愚かさを苦しみはしない。人が苦しむ悩みや後悔、不安などから、犬は自由なのである。身動きがとれない中でも、犬は楽しそうに見える。

人間の方が賢く、ロープがからまる等という問題を解決できるので、苦しみから自由と思うだろうか? 確かに、人間はロープをからめたら、計画を立てて処理ができる。確かに、人間が首にしばりつけられたロープをからませてしまうことはないだろう。しかし、そもそも、人間はロープにつながれて暮らしてゆけるだろうか? それも犬のように楽しく。ロープはからまなくても、人間は苦しい筈である。

それに人と犬の何が違うだろう? 人間だって、自分の「ロープ」がからんでいるのが分からないだけなのかもしれない。犬がロープのからむ仕組みが理解できないように。

それなら、犬は偉い。ロープがからんでも苦しくないのである。

なぜ、犬は苦しまないか。犬には今ここしかないからである。

犬の成長を見ていると、人間にとって驚くべきことが多数ある。その一つに、子供が成犬るると、親子がほとんど他人になることがある。子犬は親をしたう。また親も子犬を護る。しかし、そうした親子関係が必要なくなると、ほとんど親子は親子としての様子を見せなくなる。つまり、その他大勢の犬との付き合いと変わらなくなるのである。

小学生の頃である。子供心に、久々に飼い犬を親犬の所に連れていった時に、飼い犬が親犬に対して何等のアクションも見せなかったのは不思議でたまらなかった。そして親犬の反応もそっけないものだった。親も子もないのである。

私は親子の関係は重要と考える。しかし、それに執着するのは苦しみしか生まない。「親だから」「子供だから」という観念で考えると、ただ苦しい。親離れ、子離れをして後に、親も子もないという人生を生きるのが、苦しみの少ない人生かと思う。

なぜ、犬は観念に惑わされないか? それは言葉がないからである。「親」や「子」というある特定状況における関係しか意味をしなかった言葉が、道徳規範となり逆に本人たちの行動を規定してゆく。

「親だから」孝行したくなるのではない。それでは観念に縛られた行動である。ある人間が親であった、そして親らしかったというそれまでの経緯から、子が自然に孝行したくなるものである。逆に子が孝行したくないような親は、親として失格だったのである。観念が固定的に人間を縛ると、ただ苦しみしかうまない。

そして、その場その場で観念にしばられずに生きられたらよいと思うと、私はどうしても犬を思い出す。

そういえば、小学生の頃、私はよく飼い犬に抱きついて泣いた。「分かってくれるのは、お前だけだ」と言って。

犬は何も言わない。「お前が親の気持ちが分かってないだけだ」とか「感謝の心が」とか「怒りっぽいと損をする」とか「怒ると同じレベルだ。無視していれば……」とか無意味な言葉を一切、犬は言わない。ただ、いつも幸せそうに舌を出していた。