2007-07-06

クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか』は不幸と付きあわねばならぬ全ての人に読んで欲しい一冊

このエントリーをはてなブックマークに追加

「神がいるというのに、なぜ善良な人々に悪いことが起きるのか?」 この本はこの問いへの答えを語り抜いた本である。

しかし、これは哲学的な議論であったり神学的な議論ではない。成人前には死んでしまう難病の息子を持った一人の父親が、それでもいかにして世界を受けいれていったのかを綴ったものである。

「どうして、この私にこんなことが起こるのだ? 私がいったい、どんなことをしたというのか?」本書は苦しむ人はもちろん、苦しむ人と接する人にとっても重要な指摘に満ちている。是非、手にとってみて欲しい。

ただ「あなたは一人じゃない」と伝えること

学者や僧侶、一般人が言いそうなことは、全て否定されていると言ってよいと思う。いかにも不幸な人に言いそうなことが、なぜ言うべきでも考えるべきでもないかが説明されている。本書を読みつつ反省すると、多くの人に何度も間違ったことを話したものだと心苦しくなる。

それでは、どうしたらいいのか? それは本書を繙いて頂きたい。が、簡単に言えば、ただ共にいて黙って話を聞いてあげること。苦しむ人がなんの罪もなく、何の言われもなく不条理に不幸に見舞われていることを認めてあげてあげること。時には、そうした不条理な状況そのものに共に苦しみ、時には共に怒りを燃やすこと。そして、苦しむ人に「あなたは孤独ではない」と伝えるということだ。

そうしたことを通じて、自然に「すでに、こうなってしまった今、私はどうすればいいのか?」と未来に目が向かうようにすればいい。不幸な人に下手な議論をしてもしかたがないのだから。

ゆっくりと「平凡」な人の苦しみをたどる

しかし、これは単純なことではない。私は本書を時間をかけてゆっくりと読んだ。

例えば以下に著者の心情が表れているが、こうした著者の感性を読みながら、彼の思索を辿ることは経験の浅い私にはかなりの内省を必要としたのである。

アーロン[著者の息子の名前]の生と死を経験した今、私は以前より感受性の豊かな人間になったし、人の役に立つ司牧者になったし、思いやりのあるカウンセラーにもなったと思います。でも、もし息子が生き返って私の所に帰ってこれるのなら、そんなものはすべて一瞬のうちに捨ててしまうことでしょう。もし選べるものなら、息子の死の体験によってもたらされた精神的な成長や深さなどいらないから、十五年前に戻って、人を助けたり助けられなかったりのありきたりのラビ、平凡なカウンセラーとして、聡明で元気のいい男の子の父親でいられたら、どんなにいいだろうかと思います。しかし、そのような選択はできないのです。

平凡を願う人はなんとも哀しい。