2008-08-24

メディアを携帯する理由 外部記憶・環境・方向づける道具として

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私たちはメディアを持ち歩いている。

それは手帳ノートのような冊子体かもしれないし、インデックス・カードなどの紙片の束かもしれない。紙に限らず IC レコーダであったり、コンピュータであるかもしれない。

私たちはなぜそうしたメディアを携帯するのだろうか。ここでは3つの理由を指摘してみたい。

1. 外部記憶

まず考え付くのは、記憶を補助するためだ。つまり、そのメディアを見ることなしには想起できない情報を得るためだ。例えば、住所録、情報のメモ、スケジュール帳などがこの目的に資すだろう。

私たちは将来必要になるであろう情報を携帯メディア記録してしまう。「記録」が常に引き出せるのであれば「記憶」する必要がなくなる。記憶の負担と不確実性は軽減される。また、辞書やネットの検索を通じて、外部記憶には自分の入力すら必要出ない場合もあるだろう。この意味で携帯メディアとは 「外部記憶」 であると言える。

2. 持ち運べる環境

ところで、メディアの携帯による記憶の補助はこうした実際的なものだけだろうか?

例えば、私たちはそうしたメディアに家族の画像を載せることがある。つまり、しばしば私たちは携帯の壁紙や手帳の見開きに子供尾の写真を貼る。あるいは、自分の夢や信念などを手帳に書いている人もいる。目標を掲げて、そこからスケジュールをブレークダウンしている人も多い。

これはある意味では「記憶の補助」に他ならないが、それは住所録やスケジュール、情報のメモとは性格が異なる。

家族の写真を貼ったり、夢を書いたりするのは何故だろうか。たぶん、それを見ると「いい状態になる」からだろう。つまり、穏やかな気持ちになったり、頑張る気持ちになるのだ。

こうした特徴は文字や写真に限らず、音楽や音声であっても同じことだし、自分のお気に入りの本を持ち歩くことでもおなじことだ。

気分次第でパフォーマンスは大きく変わる。だからこそ、よく目にする場所に自分を穏やかにしたり奮い立たせるものを置くことで、精神的な面を助けてもらっているのかもしれない。

これは壁に紙を貼ったり、机に写真たてを置くことに似る。音楽についてはまさに自分の部屋を持ち運んでいるようなものだ。この意味で、携帯メディアとは 「持ち運べる環境」 である。

ところで、自分の夢や家族のような大切なことは頭に焼き付いていて、わざわざメディアで運ぶ必要はないように思うかもしれない。もちろん、そういう人もいると思う。ただ、私は人間というのは驚くほどに何でも忘れてしまうものだと思っている。かっとなったり、しょげたりすると自分の夢なんてころりと忘れてしまうものだ †。そういう時に、愛や勇気を与えてくれるものは想像以上に役立つ。

3. 自分を方向づける道具

私たちは自分が何を思いつくのか次の瞬間ですら自分でコントロールできない。だから、自分を無意識のレベルから方向づけようと思うのならば、日々目にするもので刺激しておくことぐらいしかできない。つまり、夢や目標を常に目にしておくことで、無意識的な発想に影響を与えられると考えることができるというわけだ。

これは、多くの成功本が言っていることでもある。いわく「目標を紙に書け、目にするところに貼れ、朝と夕に読み上げろ。」もちろん考え方やイメージだけでうまくいくわけはないが、すくなくとも、よい考え方やイメージがなければうまくいくはずがない。

持ち運べる環境である携帯メディアは、こうした無意識の方向づけにも役に立つ。そこに書かれた「自分がどういう人間になりたいのか」「どういう未来が待っているのか」ということが、自分の習慣をつくりだすだろうし、そうした習慣が未来の現実をつくってゆく。

そこに記された情報は引き出せるだけでは意味がない。その考え方が習慣となり、その夢が現実になることが大切である。だから、繰り返し目にして記憶の底に焼き付け、よりよい考え方やイメージを身体化してゆく。

ここに至って携帯メディアは、客観的な情報を記録した外部記憶としてではなく、自分にとって内面化すべき考え方を保持したものとなる。それは自分を方向づける道具である。

これは写真や手帳に限らない。一冊の書物や一つのお守りなどが「トリガー」となり、自分を方向づけるメディアとなるだろう。

外部記憶と方向づける道具の違い

さて、ここで上記の視点をまとめてみよう。

外部記憶としての携帯メディアでは、情報を引き出すには常に意識的な操作が必要になる。携帯メディアがある種の「環境」になることで、無意識的に情報を自分に与えることができる。だから自分の方向性を決めたい場合には、そこに自分にとって好ましい考え方やイメージを盛り込むことで、自分を無意識的に方向づける道具となった。

ここで重要なのは、外部記憶としての携帯メディアと自分を方向づける道具としての携帯メディアは性格が大きくことなるということだ。ちょうど「持ち運べる環境」としての携帯メディアという性格を軸にして対照的である。

その一つの違いは、情報を引き出すときに意識的であるか無意識的であるかということだ。客観的な情報を引き出すのには意識的な操作があってもいい。しかし、自分の夢や習慣にしたいことを意識的な操作を通じてしか取り出せないのでは意味がない。何気ないときにふと自分に教えてくれる仕組みでなければならない。

また、外部記憶としての携帯メディア「情報を忘れるための道具」である。そこに「記録」することで「記憶」をしないですむ。これはワーキングメモリ(短期記憶)の負担を軽減する。雑多な情報が頭をかすめてワーキングメモリを圧迫している場合には、それを「記録」してワーキングメモリの外に追い出してしまった方がよい。

一方で自分を方向づける道具としてのメディアは「情報を身体化するための道具」である。自分の夢や考え方を記録することで忘れてしまってよいのなら、そもそもそんなことは記録しないでしい。そうした自分を方向づける情報は徹底的に記憶され、長期記憶に保存され、習慣となり、身体化されねばならない。

携帯メディアというとデジタルとアナログという軸で語られることが多いが、こうした目的を軸としたことから考えてみると、よりよい利用法やあるべき姿が浮かび上がってくると思う。

notes

† いい言葉を耳にしてテンションが上がったとしても、その言葉をころりと忘れて、同じ間違いを犯したりすることを私は何度もしている。この点を ノートの取り方(5) 常に追記する では以下のように書いた。

人間は何でも忘れてしまう。本当に大切なことをいとも簡単に忘れてしまう。ふと気が付くと、自分が何をするつもりでそこにいるのか、その何年という時間を注ぎこんでいたのかすら、あっさりと忘れてしまう。何かの痕跡なしには、何も保つことが出来ない。だから、私たちは痕跡を残し続ける。

ここで痕跡を残すというのはメディアに新しいデータを載せることに他ならない。