2007-02-03

海原雄山とメガマック

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以前、どこかで海原雄山が高級車の後部座席で豪快に笑いながら「メガマック食いたいな」と言っているマンガの一コマを見た気がする。

んで「おいおい、雄山がメガマックかよ」って笑った訳なんだが、なんだか笑うだけじゃなくて、ごちゃごちゃと考えてしまった。

んなわけで、ちと書く。

海原雄山が「メガマック食いたいな」というのは「そんな海原雄山ありえねー」と笑えるが、実はそれほどありえないことではない。

CMを見れば一流シェフが即席麺や冷凍食品、レトルト食品、コンビニに置いてあるようなデザートなどに対して「これ本物」とか「うまい」とか言っている。

そもそも海原雄山は漫画のキャラであり、著作権保持者と広告作成者との交渉次第では、テレビで海原雄山が「メガマック食いたいな。がっはっは」と言うのはありえることである。

グルメ、美食の気違いである海原雄山と、食い物の名称という枠組みを越えてしまったメガマックの結婚はありえるのである(それにしても、なぜメガマックという名称はこんなに食べ物から離れているのだろう)。


ところで考えるのだが、「グルメ」という現象と「ファストフード」「コンビニ」「ファミレス」という現象は同時期に進行したように思う。

というか、この現象は同時期に進行しただけじゃなくて、本質的に同じ現象の表と裏だったという気もする。

別に説明しようって気はしないんだが、地方ごとの味覚、家庭ごと味覚というものが滅んでいった現象なんだと思う。統一した味覚が普及し、それ以外を排除していった現象なんだろう。

なんていうかな。俺は本質的に「ファミレス/ファストフード/コンビニ」と「グルメ」というのは同じ食文化の方向性だと感じている。素材や手間が異なるだけで、方向性としては同じだろう。

伝統的な家の料理、伝統的な郷土料理というのは、そうした方向性と完全に異なっている。

「ファミレス/ファストフード/コンビニ」と「グルメ」にある原理は、「値段」と「味」の配分の問題でしかない。費用(値段)と効果(味)の問題だ。この二極の原理に基いている。そしてその軸において消費者とのコミュニケーションがはかられる。

そしてその「味覚」も統一的に普及することに成功したため、どこに言っても「うまい」ものが食べられる時代となった。金があれば高そうなレストランに入れば、日本全国だいたい同じような味のものが食べられるし、金がなくてもファミレス/ファストフード/コンビニは同じ味を提供している。

家庭料理や郷土料理はその原理だけに立脚していない。それらにおいては、伝統や慣習、ならわし、それに健康などが「味」や「値段」よりも優先されることがある。

なんでも好きなものを食っていても病気になるから、薬としての食事も考案されるだろうし、その季節に何を食べるとよいか、どう調理するとよいかという伝統も生まれる。また地方ごとに多く収穫される食材があるわけで、これを飽きずに食べる方法や貯蔵する方法も生まれるだろう。

こうした「生活の必要」が生んだものが、本来の食文化だったと私は感じている。

流通はそうした文化を破壊する。

あらゆる食材が入手できる流通に支えられた上でのグルメなど、文化ではないと感じる。「うまいものを食いたい」というのは、ただの「わがまま」だ。

だから、俺にしてみたら海原雄山もメガマックも趣味の悪さという点では同じになる。「何が至高の味だよ、ばーか。その前に女房子供と幸せに暮らせよ」と。


ところで、逆に俺は「メガマック食いたいな。がっはっは」という人になりたいな、という憧れもあったりする。それくらい現代という時代が提供しているものに、ストレスなく喜べる人間だったらな、と。

ま、本気でなる? とか訊かれたら、いや、絶対やだ、と答えるだろうけど。