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2008-12-16

日々の食事の済ませ方: ドイツ風・日本風

最近、久々に自炊をしている。

自慢をするほどでもないが、僕は自炊が苦にならない。というか、これはやり方というか思想の問題であり、誰でもある程度のバラエティーがあり、栄養価のある食事を、安価にしかも簡単に行うことができるのだと思う。

ちなみに、僕は大学時代の前半である十台に大学の寮に住んでいた。そこで知り合ったメキシコ人やドイツ人は大の親友であり、食生活でも影響を受けた。特にドイツ人の生活力、規律は感動することばかりであり、大いに参考になった。

そこで、今回は和風とドイツ人風の二つを紹介する。試してみて欲しい。

2008-10-16

「味わう」ということ

「食」がテーマになって久しいが、最近、また一つ気付いたことがあった。それは、食とは「食べ物に力を与えられる」という受動的なものではなく、自らが味わい、力を引き出すという能動的なものなのではないかということだ。

宮崎駿が描く食がうまい理由

以前、食とはメッセージ という記事で「毎日の食事では、ストレスなく、静かに、食事を味わいたいと、私は求めているということだろう」と書いた。そして、日々の食事では派手さはなくともメッセージとして成立している食を摂りたいものだと述べた。いかに美味であれメッセージとして成立していない食を私は理解できない。

さて、そんなことを心の底に沈めているある日、宮崎駿が描く食事がうまい理由 - ラノ漫—ライトノベルのマンガを本気で作る編集者の雑記— という記事にて、宮崎駿の食が非常に質素かつ単調なものであることを知った。

その記事では、日々の食が質素であるからこそ、「ハレ」としてのご馳走が美味しく感じられるということで、確かにと頷いた。日々、贅沢な料理を食べていては味覚が麻痺してしまい、美味しいという感覚は消えてしまうことだろう。美味を追求した中国皇帝が、次第に食欲を失ってゆくようなものだ。逆に、戦後の貧しい時期に生まれた私の父が19にして初めてカツ丼を食った時に「世の中にこんなにうまいものがあったとは!」という興奮を味わうということが起こるのである。

また宮崎の描く食が旨そうであるのは、明かにメッセージとして成立しているからでもあるだろう。例えば、私はラピュタにおける肉団子スープや、パンとベーコンの朝食、シータが作った海賊たちの食事に憧れたものだったが、それはモノとしての食ではなくメッセージとしての食に憧れたのである。この点 J& blog http://new.ciao.jp/: 宮崎駿が描く食事がうまい理由 が非常に上手にまとめて下さっている。

うまい物を食べるのではなく、うまさを引き出す

私は「贅沢は創造力の敵」なのではないかと思う。これは上で書いた「ストレスなく、静かに、食事を味わいたい」という私の食への姿勢の延長である。

思うに、刺激が強い場合には、自分の側の感性は麻痺してしまう。簡素な食事であるからこそ、自分のリズムや感性が邪魔されない。逆に自分から何かを生みたい場合に、日々の刺激はノイズにしかならない。それがいかに美味であったとしてもだ。

自分で旨く食べるのではなく、美味しい食べ物を与えてほしいという、そうした受動的、他力本願的な姿勢は、全てのことに影響してしまうのではないだろうか。

押井守が描く「能動的な食」

ここで宮崎とも親しい押井守の映像をいくつか思い出す。彼もまた食の描写が卓越している。立食い師列伝は言うまでもなく、パトレーバーにおける柘植の食う立ち食い蕎麦や榊班長の食うアルミの弁当のシーンは思い浮かぶ。どちらも、モノとしての食べ物は別にしても、非常に旨そうに食べていた。

映像がないかと Youtube をうろついたところ以下の映像が見つかった。これも押井の積極的な食の姿勢がよく表れていると思う。

上の動画はいかにも大袈裟ではあるが、食い合せの塩梅や戦略は私も無意識にしろ行っていることだ。大切なのは「美味しいものを食べる」ことではなく、「美味しく食べる」ということなのだ。

この「与えられたものをただ食べる」のではなく、少しでもうまさを引き出すべく「迎え撃つ」という姿勢は押井や宮崎に共通した姿勢なのではないだろうか。

「飯が不味くなる」

「最近うまいもん食べた?」などと久々に会う友人に聞かれることがある。こうした問いを聞くたびに私は情けなくなる。人が少しでも旨いものを食いたいと思うのは本能であるだろう。しかし、ただ受動的に美味しいものを求める様は浅ましい。

大概そういう男と食事を摂ると、こちらまで飯が不味くなる。食卓に付くにモゾモゾと動き、姿勢は正さず、箸の作法も弁えず、挨拶もけじめもなくだらだらと飯を臓腑に入れている。食い終えたのか判然とせぬ皿には常に食べ残しがあり、下手をするとそのままに灰皿にしてしまう。こういう男に、美味しい食事を摂ることはかなわないだろう。

こうしたことは、殊に蕎麦を食うときに感じる。蕎麦ほど食う側の上手い下手が味を左右するものはないと思う。蕎麦が出て来たら即座に箸を割り、上から少しつまんで、三割ばかりつゆにひたし、即座に吸うものだと思う。蕎麦をつゆにつけこんでしまっては何のために蕎麦とつゆが別に出ているのか分からない。つゆの入った碗を机に置いたまま、肘をついて、ダラダラと食べるような男はどんなに美味しい蕎麦が出て来ても、その味を解することはないだろうと思う。天麩羅や蕎麦、ラーメンは屋台ものであり、ダラダラと食べるものではない。まあ好みもあるだろうが、見ているこちらまで不味くなるのは勘弁してほしい。

最近、都内の人々は「美味しく食べる」という能力を失いがちだと思う。

*

私は美味しいものをスリのような目付きで探し求めるのではなく、美味しいものを自分で作ったり、美味しく食べる技を研究した方が楽しいと思う。

そうした鋭敏な状態で食をとる方が精神も落ち着くと思う。結局、私たちは客観化されるような「美味」を求めているわけではなく、食からの満足を求めているのだ。だから、受動的に美味しいものを探していても、メッセージを欠いた飽食は飽食を呼ぶだけであり満足はやって来ない。

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2008-10-01

[広告]クリアアサヒ - 麦が原材料の雑味のない発泡酒

プレスブログからクリアアサヒを送っていただいたので、紹介と感想を記します。発泡酒でも原材料が大豆ではなく麦なので自然な匂と味でした。

今回は折角なので彼女と母親と飲んでみました。

「飲みやすい」「癖がない」

「飲みやすい」とは母。「ビールに飲みなれていると、発泡酒を飲むと癖を感じることがあるが、これは全然いやな感じがしない。匂いもとても自然」

それもそのはず。従来の発泡酒では大豆を使用したものが多かったのですが、このクリアアサヒは麦から作られているのだそうです。つまり、大豆が原材料だからビールに慣れていると味や匂いに違いがありましたが、このクリアアサヒの原材料は麦なのでビールに慣れている人にとっても自然な味と香りなのです。

「へえ、発泡酒って2種類あったんだ」と彼女。「そういえば昔、発泡酒といえば枝豆みたいな匂いがするのが多かったけど、最近のはビールに近いのがあるよね。なかでもこれは味がライトだから女の子向けかも」

発泡酒でも、厳選された麦芽を使用し、「澄み切り二段発酵」を用いることで、麦芽由来のうまみはしっかりと残しつつ、新ジャンル特有の雑味を一切なくし「うまみだけ。雑味なし。」ということです。

「酎ハイみたいだねえ」

もちろん私も飲んでみました。

雑味はゼロといっていいでしょう。昔の発泡酒のような「変なビール」という味ではないです。

しかし、よーく味わうと最後の最後に缶酎ハイを飲んだ時のような焼酎系の酒の味がします。イメージとしたら、ビールをすこーしだけ水で割って、それに焼酎をちょびっと入れたという感じでしょう。これはネガティヴに捉えず、キレのある味わいと理解することもできると思います。若いときやりませんでした? ビールにウィスキー入れて「俺にはこれくらいが丁度いい」とかって。ちょっとそんな感じです。

味の方向性としてはシンプルでクリアです。また、スピリッツ系の味というのもあわせて女性向けだと思います。その癖のなさは日本食にぴったりです。スーパーで買った寿司がつまみだったのですがぴったしでした。

もちろん、ベルギーあたりのビール特有の麦の香りを感じたいという人は向いてはいません。しかし、そんな人はそもそも日本のビールを飲んではいないでしょう。日本のビールはノドで飲むものなのです。だから私の常飲のビールには決してならない味の方向性ではあります。

しかし、日本食とも相性ばっちりの、キレのある味わいということでしたら、このクリアアサヒで十分に満足できると思います。よい発泡酒でした。

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2007-11-26

イタリアン + インド・カレー

週末にイタリアンとインド・カレーのコースを楽しむ。

慣れた店であり、気楽にワインを飲み、前菜をつつく。ワインがうまい。名前は忘れたが、オーストラリアのシラー種。シラーでうまいのは、なんというか、こう、熱い、というか暴力的であると思う。粗雑さとの綱渡りとでもいうか。

まあ、ちょこちょこと色々食べたのだが、中で驚いたのが、焼いたミニ・トマト。口の中で、力強く、太陽が広がった。酸味と甘味が不可分に広がり、ただ「赤い!」と感じるのみ。

味はつけるものではない、引き出すものだ、と誠に思う。塩とスパイス、それに火加減が、トマトの味をここまで引き出したか。ここのシェフは開店当初から、野菜を焼いた料理を常に研究していたことを思い出す。

なんというか、うまいものは、びたーっとうまい。ちょこっとうまいというのは、あるのかもしれないが、私にはよく分からない。頭の芯がぼーっとするほど、痺れるほどにうまいものが、うまいのだと思う。小細工なく、理解がどうとか、舌が肥えたとかどうとかの次元でなく、その圧倒的な力で、俺を感動させて欲しい。それ以外は、別にどうでもいい。興味がない。

とか言いながら、自分の家の炬燵で、好きな音楽を聞きながら発泡酒でも飲みながら食べれば、何を食べたって痺れるほどにうまいのだが。まあ、恋人や母親、自分が作る家庭料理には敵わないものである。

追加で頼んだチキン・カレーは何故かいまいちだったが(だから追加でオーダーするまで出さなかったのかもしれない)、全般に満足する。ただ、問題は食べ過ぎたこと。

来週からは、質素に暮らしたい。「身ひとつに美食を好まず」が正しいと常に思い続けてはいるわけだし。

[続き]

2007-11-18

食とはメッセージ

誰かが言ってそうなことだが、書いてみる。

が、結論をさらりと書かずに、こんな文書を書く経緯を書かせてもらいたい。

実は、9月からサラリーマンとなり、日中を東京で過ごした。ここで初めてサラリーマンの昼を経験し、驚いた。まともに昼食をとることが、これほどに難しいとは思わなかった。

つくづく、甘えた男だと思う一方で、極力、自分にとってベストな昼食を摂れるように努力した。そして、ある程度、値段的、味覚的、環境的にも理解できる店を見つけ、そこに通い続けた。

しかし、そこでも満足は来なかった。そして、それが自分で不思議でならなかった。「なぜ、美味しいのに、旨いと感じないのだろうか?」 「そもそも、うまいとは何だろうか」 私は毎日、その店で味わいながら、考え続けた。

一方で、帰宅してからの食事の美味しいことといったらなかった。服を楽に着替え、自室に腰を降ろし、テーブルの上に置かれた冷めきった食事を食べるのだが、これが滅法おいしくてたまらない。特に、米を口に入れて、噛みしめる一瞬前の「食べてる!」という実感が、全然違うのである。

最初は、環境がリラックスすることで全然味覚が変わるということだと考えた。同じ料理でも、楽な服装で食べた方が、おいしく感じるのは当然である。しかし、そうかと思って、実家で食べる感覚を思い出しながらランチを食べ、ランチを食べる感覚を思い出しながら実家で夕食を食べて、その味覚を考察していると、それだけではないと思い至った。

一つに水が違うのだと思い付いた。東京の水について云々しないが、やはり地元の水に慣れているのでおいしいのだろう。実家の米を電子レンジでチンしても気にならないが、昔、東京の水で炊いた米をチンしたら、臭くて食べられたものではなかった。冷たくてもいいから、臭いのはつらく感じた。

そして、しばらくは、ランチと実家の食事の差について「水の違い」として理解していた。しかし、昼食の時に、そうしたことを意識して考えながら食べていても、やはり、水だけでは説明がつかないことも多い(ただし、やはり水で説明がつくことも多い)。

ここで、当然のこととして、私が母の味に慣れているというのがある。食事を口に運んで、噛みしめる瞬間に、「うまい!」と感じるのは、まず味の予測があり、その予測の緊張の中で食物を口に運び、そして、その予測通りの味が口に広がるという解決を経験するからだと思う。音楽と同じである。

こうした、「予測(期待)」→「緊張」→「解決」というプロセスを、店では経験できない。予測や期待は、ほとんどアテにならないからである。

このことに思い至ったのは、ブリ大根を食べた時である。見た目から無意識に味を予想していたのだろう。口に運んで噛んだ際に「あれ?」っと思ったのである。予測していた味とあまりに違っていたのである。まずいのではない。ただ、予測が裏切られたのである。こうしたことが、ストレスになっているということに思い至った。

勿論、予測もできない味を楽しみたい時もあるだろう。しかし、毎日の食事では、ストレスなく、静かに、食事を味わいたいと、私は求めているということだろう。特に、新しい職場に慣れる前だったり、プロマネをしたりしてストレスがあった訳で、ストレスなく静かに食事をしたかったのだろう。

こうした音楽との比較の中から、味について更にアイディアが広がった。

食とは、メッセージとして成立しているかどうかなのだと感じた。食事ということ、そのものの全体を味わっているのである。そして、その全てにしっかりとした関連があれば、私たちはそれを理解できて、安心して味わえるのではないだろうか。

綺麗な音、いい音をならし続けても、音楽にはならないのと同じで、食事もただ美味しいということは実は問題ではない。どちらも人間から人間へのメッセージなのであり、そのメッセージがきちんと成立していたときにのみ、味わい深いものとなる、ということだろう。

東京の食事はメッセージとして成立していないということになる。確かに食物は提供されている。調理もされているとも言える。しかし、その全体が、そのメッセージが成立してはいない。ただ、ひたすら、生物の死骸とカネを効率的に交換しているだけである。ウェイトレスはひたすらにせわしなく動き回り、料理人も「火」を使うことはなく、私たちは焼きたて炒めたてを口にすることはできない。

しかしながら、東京において、まともに「火」を使って調理をして、メッセージとして成立している店で食事などとろうとしたら、これは大変なことである。切りたての食材を、静かな環境で、焼きたて、炒めたてで食べられたら言うことはないのだが。なんだか、とても残念である。

なんだかいい加減だが、こんなところで。

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2007-11-13

昼下がり、近所の鰻屋に行った。いつぞやも書いた、思い出の店である。別にどうという話もできないが、少し記録しておく。

座敷に上がり、腰を下ろす。昔は広く思えた座敷が狭い。走り回り、転げ回り、机の角に頭をぶつけたこと、その店で酔っ払って寝てしまった祖父に悪戯して、おしぼりを顔の上に載せて、叱られたことを思い出す。

特上と上を一つずつ頼む。確か、祖父は上を頼んでいた。二つを比べてみたかった。

出て来た鰻の蓋を開けた瞬間、とてもがっかりした。「蒸し」に手を抜いたのが一目みて分かったし、「焼き」も繊細さに欠けている。まあ、昼休み前ギリギリに行ったのだから、火を落としていたのだろう。そこで若いのが入ったのだから急いで仕上げたのだろう。雑になるのも無理はないか。

鰻とは「裂き」「串打ち」「蒸し」「焼き」の技である。中でも、鰻職人は「焼き」が命である。しっかりとした職人は、焦げやむらがなく息を飲む程に美しい鰻を焼き上げるのである(実際には焦げるが)。更に関東の鰻は「蒸し」が入る。カリっとした触感を認めない訳ではないが、関東人の私は、この「蒸し」が入った、ふっくらと柔らかい鰻が大好きである。

落胆しつつ、上を食べる。予想通り、ふっくらとした触感は少く、雑に塗られたタレの雑味を感じる。ただ、鰻自体は新鮮なのだろう。すっきりとした味の中に、こみあげてくるエネルギーがある。

ややあって特上を食べる。更にすっきりと雑味のない鰻である。比べてみるとはっきりと分かる。そして、すっきりとしているのに脂がのっているのが分かる。

鰻は目にいいという。気のせいかもしれないが、眼精疲労が柔らいだ気がする。そして、なんとなく食べると頭がよくなるのではないかと思う。頭がすっきりと元気になっていった。

思い出の鰻はもっとおいしかった。が、そうした移ろいを感じながらも、やはり鰻は美味しく、元気を与えてくれた。

また訪れた折には、店の人と話してみたい。十年以上も前だが、あれだけ通っていた祖父と私を憶えているかもしれない。また、あの鰻を食べたいと思う。

雑駁だが、こんなところで。

2007-10-08

鮨を喰った

先日、滅法うまい鮨を食べた。調子にのって昼から酒を飲むほど美味かった。鮨の香りといえば、思い浮ぶ一文がある。

夜が更けるにつれて遠くなりながら耳を惹く郊外電車の音に、線路端の人の家の庭先に白い花をちらほらと割かせていた梅の老木を思ううちに、門を入ってきた足音が勝手口の方をまわり、そこで柔らかな女性の声がきこえていたかと思うと、家の内に染みついた線香のにおいの底から、鮨の香がくっきりと立ち昇ってきたところだった。

古井由吉『白髪の唄』である。

この文のせいか分からぬが、鮨といえば線香や梅の香を連想させるようになった。いや、線香の香はこの文だけでなく、私の経験にもよるものか。

東京の通夜では鮨を喰う。古井も、人死(ひとじに)の夜に生物(なまもの)を喰う「怖気(おぞけ)」から、この小説を書き起こしているが、私も、何度かあった通夜の度に、酒を飲み、鮨を喰う大人に「怖気」を感じていた。

高一の終わりには、よく人が死んだ。二月には、心臓を患っていた中学時代の同級生と、私の親友の父親が死に、3月には祖母が死んだ。その度に私は、蛍光灯に照らされる鮨をじっと眺めたものだった。そう、線香の香の中で。

そう、同級生の通夜の後、葬儀場から帰るバスの中で、小学生の頃に好きだった女の子と席が隣になった。夜闇に梅を眺めたと思うが、これも記憶違いか。その前後に、彼女が身を持ち崩しているとの噂を耳にしていた。が、それを確かめることもなく、なにか他愛もない話をしたか。それとも黙っていたか。

私は私の怖気の中で、鮨を喰うことなく、腹を空かして家まで戻った。家路は寒かった。怖気と食い気が一つになり、哀しく、空しかった。死を受け止められず、ひたすらに線香臭い顔をしていた。

まあ、線の細い男である。喰えばいい。結局、人には死など分からないではないか。と今では思う。思い出せば、同級生の葬式の後には同窓会のようになり、皆はカラオケに行ったという。そんな彼等を軽蔑していた私が、愚かというものである。

***

まあ、休みの昼に酒を呑みつつ、鮨を喰う。いいではないか。旨かった。来週は近所の鰻屋でも行くかと思う。

すると来週は鰻が好きだった、死んだ義理の祖父の話でもすることになるか。そういえば、彼と最後に会った時に食べさせたものは鮨だった。

2007-08-10

AD: 初めて食べる発芽玄米の懐しさ

発芽玄米を私は初めて体験した。初めてなのに、どこか懐しい。

普段話さない父も「玄米は昔食べた。あれは腹を下しやすいから……」などとブツブツ言いながらも少し食べ、「そういえば、俺が子供の頃は……」と、いつになく昔話を始めた。

玄米パン、玄米茶……素朴で懐しい響きである。

ゆっくりとしっかりと米を噛み締めてみて欲しい。ほんわかと茶色い玄米の一粒一粒に忘れてた味、夏の夕暮れの味がすると言えば、読者には笑われるか。

ゆっくりと、しっかりと、一粒一粒、私はしばらく玄米を食べ続けてみたい。


発芽玄米普及プロジェクト発芽玄米普及ブログキャンペーンに当選し、発芽玄米1kgを送付していただいた。

まずパッケージである。

言い方が悪いが「ウリ」は健康である。通常の玄米よりも「ギャバ」という栄養素が豊富の摂れると謳っている。

また、以下の全27ページのリーフレットも付属していた。玄米の健康面での長所、炊き方、レシピなどが紹介されている。玄米生活を楽しくしてくれそうである。

さて、そうした玄米を炊いてみた。玄米だからといって炊くのは簡単である。白米の時より水を多めにする程度であり、白米と手間は変わらない。

ご覧の通り、全体的にほんわかと茶色い。懐しい夕暮れの色である。

一口たべてみる。

硬い。一粒一粒がきちんと口の中で存在を主張している。穀物を食べている、という実感が湧いてくる瞬間である。

そうした玄米をゆっくりと咀嚼する。そこには米をしっかりと「潰した」という実感がある。

風味は白米の比ではない。しっかりした骨格と風味、自然を生き抜いた「野生」すら感じると言えば大袈裟か。

とても素朴な味である。癖があるとかそういうことは全くない。玄米茶が普通に飲める人なら、おいしく食べられると思う。

しっかりと米を噛むこと

「こめかみ」という言葉がある。私たちの祖先は硬い米を食べる中で、咀嚼時に動く部分をそう読んだ。

ふと、そうした古代の祖先に想いがゆく。

なぜ、顎ではなく、こめかみが動くのか。ご存知の通り、こめかみは顎の上に位置し、普通の食事の時に動いているという意識はそれほどない。事実、柔らかいもや大きなものを食べる時には、こめかみはほとんど動かない。白米ではこめかみが動くほどに噛み締めることはないだろう。

こめかみが動いたのは、米が固く、細かかったからである。しっかりと噛み締めねばならなかったが故に、こめかみが動いたのである。同様に「噛み締める」という言葉も、何か大切なことを自分に取り入れるという意味である。

古代の祖先は、「こめかみ」がしっかりと動くように食事をし、しっかりと噛み締めて生きていたのであろう。それに比べると、現代のこめかみはおろか、顎すら退化するほどに「噛み締めない」食事とはいかがなものかと思わずにいられない。

顎が細いと現代の子供を嗤うなら、風味も歯応えもない白米やパンの代わりに、本物の風味を備えた玄米やパンを与えるべきでなかろうか。ちなみに、歐州の本物のパンの風味や歯応えは堂々たるものである。学生時代にドイツからの友人には「日本のパンはスポンジのようだ。それも、やたらに歯にニチャニチャとからみつく。パン自体の味に乏しい」と嗤われたことも思い出す。「そんなに柔らかいものばかり食べて問題はないのか?」

確かに噛むことの健康面での重要性は多く指摘されるところである。PL広島情報局: 楽々ツボ教室: 頭痛にこめかみには

こめかみには、三つのツボが縦に並んでいて、頭部の血液循環と密接な関係にあるところです。(……)玄米、たくあん、するめいかなど、時間をかけて奥歯でしっかり噛んで食べると、こめかみの筋肉が働いて、頭部の循環がよくなり、頭痛の予防や解消に役立ちます。
とある。実際、きちんと噛んでいればこめかみあたりの頭痛の予防にかなりの効果があるだろう。

以前にも[書評] 日本人の正しい食事 - 現代に生きる石塚左玄の食養・食育論 / 沼田勇にて

日本人と欧米人は身体構造も食の伝統も異なるのであり、食文化の安易な追随は日本の食文化の破壊のみならず、日本食が育んできた健康すらも破壊するやもしれない。
と書いた。

今も考えは変わらず、その思いは確固としたものになるばかりである。日本人なら、こめかみが動くほどにしっかりと米を噛み締めながら生きてゆきたいと私は思っている。まあ、読者がそうした私の無益な叙情を笑わないでくれれば、幸いである。

ただ、読者も「日本人の正しい食事」を試してみてはいかがだろうか。懐しいが、新鮮である。

関連ページ

[書評] 日本人の正しい食事 - 現代に生きる石塚左玄の食養・食育論 / 沼田勇
[書評] ワインの個性 / 堀賢一

http://www.hatsugagenmaifukyuu.com/blog/mt-tb.cgi/13

2007-07-06

[PR] らでぃっしゅぼーや - 有機・低農薬野菜や無添加食品の宅配サービス

先日から、なにか正しい日本の食事を摂りたいと考えている。2007/06/29の[書評] 日本人の正しい食事 - 現代に生きる石塚左玄の食養・食育論 / 沼田勇にも書いたことだが、極論だが、伝統的な食が育んで来たものを失うと、心身が不健康になるのではないかと思う。

そう思っていて、アフィリエイトの登録先から来るメールに今回紹介するらでぃっしゅぼーやという企業の紹介があった。

有機野菜や低農薬野菜や無添加食品の宅配サービスである。

まだ、アマゾンのアフィリエイトや書評サービスの他に、ブログで小銭を貰うことに違和感があり、心理的に整理できていないのだが、ひとまず、いい機会だと思って、PRの文書を書くことにする。

戦後とは、流通網の整備による、大規模な物流の時代だったと思う。そうして日本全土においてほぼ同じ商品を、ほぼ同じ価格で取得することができるようになり、そうした商品を獲得することが、幸福の一つの強力なモデルであったと思う。

そうした強力な物流に支えられた商品の画一化の中で、食卓からは地元の名産品は消え続け、西洋風の食品、あるいは和風であったとしても牛肉を加工した食品が進出し続けた。

「あなたが普段食べているものを言ってみたまえ。あなたがどんな人物であるか、当ててあげよう」とは、十九世紀フランスの美食家ブリヤ・サヴァランの言葉である。また、私は思う。「その民族が普段食べているものを言ってみたまえ。その民族がどんな民族であるか、当ててあげよう」と。

考えて欲しい。「ビフテキ」という言葉が与える響きに、戦後の高度経済成長の景色は全て包まれているのではなかろうか。「ビフテキ」だけではない。「スキヤキ」という言葉にも様々な景色がある。また、「ハンバーガー」「ハンバーグ」という言葉、「ギュードン」という言葉もあるだろう。そうした響きの織り成す世界が、過去の日本の景色である。いいか悪いかはともかく、ある種の憧れやエネルギーがつまっているように私は思う。(その点「朝マック」「メガマック」「ブタドン」「コンビニ弁当」という言葉の響きは、いかにもポスト昭和である)(ちなみにポーク・カツレットを「勝烈(かつれつ)」と名付けた明治の人や、「トンカツ」と命名した昭和の人は、ブタドンという響きを生むことは無かったと思う)。

日本人の食はどこへ行くのだろう。美容・健康や環境などへの意識の高まり、いわゆるロハス(LOHAS)な人々は食文化を形成しつつあると思う。そんな中、今回紹介するらでぃっしゅぼーやという企業が、この先に活躍してゆくのかもしれない。

繰り返すが、有機野菜や低農薬野菜や無添加食品の宅配サービスである。大規模で画一的な流通ではない。見てもらえば分かるが、個別的でなかなかに個性的な品揃え(年間約4,000アイテムの豊富な品揃え)である。

少なくと都市部に住む場合、こうしたサービスを利用しながら、未来の食に向かって進んでゆくしかないのではなかろうかと私は思う。

お試しサービスはこちらから:
http://c.p-advg.com/adpCnt/r?mid=747250&lid=1

※BloMotion・キャンペーン参加記事

2007-06-29

[書評] 日本人の正しい食事 - 現代に生きる石塚左玄の食養・食育論 / 沼田勇

本書は石塚左玄の食養・食育の原理を解説・紹介し、その上で、具体的な献立やレシピ、月毎の献立案など実践面も提供している。

付録に石塚家家系譜、石塚左玄年譜、食養会発起人並びに協賛者、明治天皇と石塚左玄、石塚左玄逝去以降の食養関連年表、ビタミン類/有効微量成分/ミネラルの働きが付いている。

昨今「食育」が叫ばれているようだが、石塚左玄は近代日本の食育のベースとなっているようなので、見ておいて損はない。

特に欧米ベースの翻訳栄養学への批判に留意しておくことは大切だろう。日本人と欧米人は身体構造も食の伝統も異なるのであり、食文化の安易な追随は日本の食文化の破壊のみならず、日本食が育んできた健康すらも破壊するやもしれない。

著者について

著者の沼田勇は1913年生まれの医学博士。

北里研究所から軍医として中国に渡り、中支派遣軍150万人の復員時は、消毒薬皆無という劣悪な環境だったが、水分摂取を指導することでコレラ、赤痢などの感染者を一人も出さなかった。これを国連WHOが沼田法として採用。

1954年に日本綜合医学会を創立し現在永世名誉会長。

ちなみに断食・小食療法で有名な甲田光雄は日本綜合医学会第5代会長で、現在名誉会長らしい。

石塚左玄 - 食育の始祖

石塚左玄(1850〜1909)は我が国の「食育」の始祖。陸軍少将、薬剤監。欧米近代医学を学び、陸軍軍医の道に入り、その頂点にまで達したが、陸軍退役後、大日本食養会を創設、食べものによる病気直し、食養医学を唱導、今日の自然医学興隆の祖となる。

沼田によれば、石塚左玄の食養法は以下の五つの原理とのこと。

1. 食物至上論 - 命は食にあり、薬として食を重視する。したがって食を道楽の対象にしない。

2. 穀物食論 - 肉食動物でも草食動物でもない人間にとって、最も適した食物は穀物である。

3. 風土食論 - 順化適応した先祖代々の食、″おふくろの味″を守ること。守らないと淘汰される。淘汰が病気である。

4. 自然食論 - その土地、その季節のものを丸ごと食べること。丸ごととは命全体をいただく。

5. 陰陽調和論 - 健康長寿の秘訣は食のバランスを保つことである。

具体的には、玄米などあまりついていない雑穀の主食に、野菜、海藻、豆類、魚介の副食というのが日本人にとっての理想食なるとのこと。そうした食材を、素朴で単調な、その土地の気候風土に培われた伝統的食構成でいただくのが健康を育むらしい。

食生活の体系を再考する

また、食生活の体系を探り直すために以下の三つを考え直してみる必要があるという指摘も参考になった。

(1) ある民族の食生活の体系は、その風土に規定され、その自然力を最大限に発揮させる農業や漁業の仕組みによって決定される。つまり、生産が消費を決定する。

(2) 食生活の第一義的な要件は、それによって、人間が健康な生命を維持し活動して子孫を残し、永続的な繁栄を保障することである。

(3) 食の嗜好は、(1)の風土と農漁業生産の仕組みのなかで、長い年月の間につくられたものであり、そこに消費者の調理・加工・貯蔵などの相違が重なりあって生まれたものである。

私も、風土を無視した食生活は、結局は心身の健康を損うだろうと思う。私たちの心身は、その風土で生きるように最適化されている筈なのだから。そして、そうした心身を損なうような食生活は、本来の食の機能を果たしていないとも言えると思う。

食は健康を生むことが第一義であり、「おいしさ」はその下の問題である。

いや、無論「おいしさ」も大切である。

しかし、そもそも味覚とは、文化や伝統、ひいては風土の問題なのだ。土地の恵みと、その土地のものを食いぬく営みとの相互作用の中で、味覚は育まれ、継承されているのである[1]。その土地の恵みが「マズい」と言って食えない人間は生きぬけない。味は覚えるものなのである。

その風土の味覚を受け入れるようになることが、本来のその土地の構成員として成人する一つの条件かと思う。「これが食えるようになったら大人」という感覚は、いまだにあるのではなかろうか。

郷土料理の真髄は大概、他の土地の人間にはクセが強過ぎる。「名物にうまいものなし」である。ただ、そうした土地のクセを好むように、土地の人間は成長してゆくものである。それを食わなければ生きぬけなかったのかもしれないし、それが薬なのかもしれない。あるいはその土地の人々の情感が溢れているのかもしれない。

そうした土地のクセを覚えることもなしでは、そんな味覚は薄っぺらい、子供の味覚である。塩辛や梅干しも食べられない海外の人にに日本料理を語られたら、どういう気分になるか考えて欲しい。

それに、子供の味覚は「薬」を好まない。単純に甘い味のみを求める。それに、どういう訳か、インスタント食品や冷凍食品、ジャンク・フードに特有のクセを好む傾向もある。これでは心身を壊す(大概は歳をとると食べずらくなるものだが)。ちなみに、特に昨今は牛丼とハンバーガーという二大牛肉ファストフードが日本人の心身に大きな悪影響を与えているのではないかと考えている。

子供の味覚を脱し、大人の味覚になること、つまり味覚の成熟が心身の健康につながると私は考えている。それは案外に素朴で、質素なものである。しかし、クセがあり、味わい深く、懐しい。


私はしばらく本書を参考に玄米と、旬の日本の伝統的な料理を試してみたいと思っている。また、伝統的な保存食も自分で作って試してみたい。天然の塩など素材にもこだわってみたい。

なんだかとても贅沢なことを言っているが、値段にしたら大したことはない。こうした贅沢は、とても豊かだと思う。

あなたも、「日本人の正しい食事」を試してみてはいかがだろうか。懐しいが、新鮮である。

notes

[1] 生産が嗜好を規定するという点については食文化試論を参照。体で食えも同じ路線の文章。

また、逆に、味覚から生産が生まれる可能性について考える方もいるかもしれない。流通の拡大によって土地以外の味覚に晒されて、本来の味が変化する危険については既に[書評] ワインの個性 / 堀賢一に以下のように書いたので参考にして欲しい。

その土地の風土とそこに暮らす人々の営みの産物としてのワインの個性は次第に絶滅に向かっている。何度も飲んで初めておいしさが分かるようなワインは、その文化を知らない人々には売れない。そして、すぐにおいしさが分かるワインばかりが流通するようになる。そして古いタイプの頑固なワインは姿を消してゆく。
私は、なんでも「おいしー」で済むような個性を失なった味覚など、味覚ではないと思う。なんでも「かわいー」という美的感覚が、美的感覚でないのと同じだ。

また均質化した味覚については海原雄山とメガマックにて、ジャンク・フードとグルメは、日本の個性的な伝統味覚の放棄と大規模な流通による味覚統一現象という同じコインの表と裏であると主張した。この意味で現代日本は「一億総立食い」社会である。

日本人は味覚を、食の伝統を取り戻せるのだろうか?

2007-04-14

[書評] ワインの個性 / 堀賢一

ワインを楽しむあなた、いや、酒を楽しむあなた、いや、食を楽しむそこのあなた! 是非とも本書を読んで欲しい! そして考えてほしい。ワインの個性について。

***

私はワインを好む。

こう言うと反応は決まっている。「えー。あのボルドーとか、ブルゴーニュとかって?」「アー、アレ。ボジョレーでしょ、ボジョレー。あんな、浮かれた日本人の象徴みたいの好きなの? あれって原価200-300円なのをさ、1200円もかけて飛行機で運んでんだよ?」「あー『あの腐葉土の匂が……』とか、ごちゃごちゃ言うの? うまけりゃいいじゃん、うまけりゃ。だいたいさ、ウンチクこねるってのはさ、本来の自然な味覚ってのをさ……」

私は言いたい。いや叫びたい!違う! 全然違う!それには理由があるんだ!そして、この本をそうした人に渡したい。いや「講義」をしたい。頼む。お願いです。ワインを楽しむあなた、いや、酒を楽しむあなた、いや、食を楽しむそこのあなた! 是非とも本書を読んで欲しい! そして考えてほしい。ワインの個性について。

そうすれば、きっとあなたもワインを好む人間が理解できると思う。勿論、結局ワインを飲まないし、そうした人々の営みは嫌いかもしれない。ただ、そうしたワインを愛する人々の営みの大切さ、重さも分かってくれるんじゃないかと思う。

ワインを愛する人々が、他の人から奇異に映るのは、ワインには強い「個性」があり、そして、それを認められているからである。いや認めるどころじゃない。個性を愛しているからである。つまり「うまい」「まずい」という二元論的、数値的な枠組みから、ワインは個性を主張する事で自由なのである。「うまくて安いな。がっはっはー」ではないのである。ワインを愛する人は、その自由と個性を愛し、それが故に語り合うのである。普通の人は飲み物の個性など愛しはしない。だからワイン好きは変人に見えるのである。

ワインの個性、ワインの自由が理解できない人は、ちょっと考えて欲しい。「ワインの旨さとは何か?」と。

カシスの香りが気分を爽快にしたかと思うと、腐葉土の匂いが胸の奥深い所をくすぐる。タンニンが強く舌を痺らせ、一方で酸味が強く唾液を刺激する。それだけじゃない。新鮮な果実を啜るように新鮮に弾けた後には、太陽に照らされた土を頬張るように、乾き、喉をつかむ。こうしたことが一度に起こるのである。それは一度限りの素晴しい体験なのである。

ワインはただおいしさを越えた、その「個性」で私達を掴むのである。ワインの旨さとは定義不能であり、そもそも定義することが無粋である。そんなことは、ワインを育む土壌や気候、技術や文化への冒涜でしかない。個性の文化の産物、人の営みなのである。どうして比べられよう?

勿論、作り手は究極のワインを作るだろう。しかし、それはただある「個性」を生むのでしかないのであり、そこにこそ、 ── つまり、自然な・あるべき何者かが創造されることにこそ ── ワインの究極があるのだと感じている。

いや、私の説明は誤解と嫌悪を与えるだけだ。本書はそのことをとても分かりやすく、時に高度に教えてくれる。私のように宗教ぽかったり、イヤミっぽかったり、ぶっとんだりなんてしない。科学的に、知的に誠実に深みと豊かさのある説明をしてくれる。まさにワインへの慈しみを感じさせてくれる。人柄が滲み出ているとも言える。

いや、それだけじゃない。本書はそうした「個性」が現在崩壊に向かっていることも教えてくれる。詳しくは本書を読んで欲しいが、一つの例を出せば、大規模な流通の中で、その土地の風土とそこに暮らす人々の営みの産物としてのワインの個性は次第に絶滅に向かっている。何度も飲んで初めておいしさが分かるようなワインは、その文化を知らない人々には売れない。そして、すぐにおいしさが分かるワインばかりが流通するようになる。そして古いタイプの頑固なワインは姿を消してゆく。

「それでいいじゃん」とあなたは言うかもしれない。「酒なんて酔えればいい」「うまけりゃ、それでいい」と言うかもしれない。

なるほど。確かに。うん。ばいばい。

そうじゃないあなた! 共にワインを語りましょう! もちろん費用はあなた持ちで!

最後に、これくらいの知識と愛情を持った批評家が他のジャンルにもいて欲しいと思う。ワインは、その営みの層の厚さが、やはり凄いと感じる。




ワインの個性
  • 著:堀賢一
  • 出版社:ソフトバンククリエイティブ
  • 定価:1890円
livedoor BOOKS
書誌データ / 書評を書く

2007-02-19

食文化試論

食文化について考えて久しい。「食」に対し自分が感じていること、一般的な「食」の「常識」に対する反発などをどうにか言葉にしたい、と感じていたのだが、最近、その方向性が見えてきた。

まあ、そんなポイントというかぼやきを少々。


さて、どこから話そうか。

まず料理とはレシピではない。つまり、レシピを見ながら料理を作ることは料理ではない。食材を買って来てレシピに沿ってメニューを作ることは料理ではない。いわんや、食文化とはレシピの集合体ではない。

なぜか?

それは私の料理の定義による。私の定義によれば、料理とは「やりくり」であるからである。料理とは与えられた状況に対する「やりくり」の技術だからである。どういう食材(や調味料、保存食)と調理器具があり、時間的、文化的(特に医療・宗教)な制約がある上で、それを保存したり、(食べる人間にとっておいしく)食べられるようにする、人間の工夫、やりくりを私は料理と呼ぶ。

その「やりくり」「工夫」の無い料理は料理ではない。少なくともそうした料理は食文化に貢献することはない。食文化の単純な消費でしかない。そしてすべての消費がそうであるように、そうした消費は食文化を破壊する。

これは「料理」という言葉の問題である。「まあ、うまく料理してやるよ」という日本語の発言は、与えられた状況をやりくりすることである。もし、そこに創意工夫が無いときは、私たちはそれを「料理」とは呼ばないだろう。


と、どんどん電波なことになってしまった。ふむ。まあ、続けるか。

そして食文化とはそうした「工夫」「やりくり」が創発したものである。「やりくり」に関する効率や組合せの問題から、自然に方向性が生まれるだろう。その方向性を決定するのは、実は人間の味覚の問題ではない。そうではなく、食材と器具の効率と組合せであるので、方向性を決定するのは、食材と器具なのである。

すると、食文化とは、存在する食材と器具の問題につきる。どのような食材があり、どのような器具があるかが、食文化を決定する。

「どういうものを食べたいか」という人間の趣向が食文化を生み出すのではない。既に成立した食文化によって人間が影響された上でしか、人間は食への趣向は持ち得ない。食の趣向は食文化があった上でのみ成立し、食文化は食材と器具の組合せと効率的な使用(つまり工夫)により創発する。故に、すべての食文化とは食材と器具がどのように存在するかに依存する。

もちろん、与えられた条件で、人間がどのような創意工夫を発揮するかも大きな問題だが、それは単純に偶然の問題とも考えられるし、それよりも言いたいのは、大概、人間の創意工夫といっても大枠は同じであり、同じような条件が与えられれば同じような工夫をする(とはいえ、それが既に成立した食文化の趣向に影響を与えられる場合もあるが)。


どんどんボロボロだが、まあ、続ける。

どうして調理の工夫の大枠が同じなのか? 創意工夫は無限ではないのか? 料理は無限ではないのか? こう思うかもしれない。

それはテレビの見すぎである。確かに「レシピ」は無限であるが、実はそれは「組合せ」の問題であり、料理における方法は有限である。

私の考えによれば、料理とは食材の以下の方法の有限の組合せである。

・切る(剥く、おろす、つぶすなども含む)

・和える(混ぜる、振り掛けるなども含む)

・火を加える(後述)

これらの操作を行えば全ての料理は完成する。もちろん、食材もほぼ無限にあり、操作を無限につなげることも可能と言えば可能である。しかし、入手する食材や操作の回数(所要時間)に現実的な線が存在するだろう。

そして操作の可能性すら、存在する調理器具に依存する(特別の事情が無い限り、すりこぎの無いところですりおろしはしないし、オーブンの無いところでローストはしないし、コンロの無いところで炒め物はしない)。

既に

どういう食材(や調味料、保存食)と調理器具があり、時間的、文化的(特に医療・宗教)な制約がある上で、それを保存したり、(食べる人間にとっておいしく)食べられるようにする、人間の工夫、やりくりを私は料理と呼ぶ
と書いたが、入手食材に限度があり、調理器具が操作を限定し、更に時間的制約が操作回数を限定する。ある状況における料理の可能性は現実的には有限である。

そしてその有限の可能性の中から人間は最善と思う行動を選択する。効率の問題から調味料や保存食は同じものが使用されるからベースとなる味付けは決定され、趣向が生まれるだろう(日本の大豆発酵食品、インドのスパイス、フランスならソース)。その趣向が他の料理にも影響を与え、そして更にその料理が趣向を形成してゆく。

そして、その体系化を私は食文化と呼ぶ。趣向とは本質的には食材と調理器具の効率的な使用によって生み出されたものである。大切なのは「趣向」の問題ではなく、「有限の可能性」、つまり食材と調理器具が食文化を本質的に決定することである。


調理器具の問題を考えたい。これが料理を大きく左右する。

典型的なフランスの家庭に炒め物が出来るガスコンロはなく、日本の家庭にバーナーやオーブンはない(両者とも最近はあるが)。魚焼きグリルが日本ほど普及している国はないだろうし、圧力釜がインドほど普及する国も無いだろう(インドは豆や根菜を利用した料理が多い)。多くのアメリカ人にとって白米を炊く専用機の存在は不思議なのと同じく、多くの日本人にとって朝の野菜/フルーツジュース専用のジューサーの存在は不思議だろう。

これは「さて、ちと洒落た料理でも作るか」と料理本を見た時にぶちあたる壁である。「オーブン? ねーよ」「二時間煮ろ? ざっけんな」(これはオーブンに鍋ごと入れてほっとけるから出来る技といえる)「バーナーで肉の表面をあぶれ? おいおい」「チーズおろす?」「肉を叩く?」とか。食文化が違うと台所に置いてある道具が違う。

また、食材でも同様に「そんな食材うちにはありません。というか買いに行くのも面倒です」という壁にぶちあたる。最近ではバジルくらい常備する台所も増えただろうが、それでもイタリアンやらフレンチやらを作るだけの食材が常備されている家は少ないだろう。

そして、そうした台所から無理やりイタリアンやフレンチを作るもんだから話がおかしくなり、大して美味くも無いのに「いやあ、料理した」という気分になるのである。

元々冷蔵庫には普通の食い物があるというのに、レシピを見て食材を買いに行き(場合によっては道具も購入して)、自分の食文化と違う料理を作るのは料理の勉強というよりかは、それは「料理」そのものの破壊じゃないだろうか。

レシピばかりを見ても、道具や食材に対する知識や技法を知らなければ、浅い料理しか出来るはずは無い。料理のよしあしとは手順が必要なのはもちろんだが大切なのはコツである。そうしたコツは文章になることは無く、その土地土地、その家々で、口伝えで受け継がれてきたのだろう。コツの伝承が食文化である。

料理とは完成品としてのレシピやメニューではなく、調理器具と食材への知識や技法、つまりコツこそが食文化にとって肝心なのだろう。


はぁ、めちゃくちゃだな。なんか疲れたのでまた。

2007-02-05

「食うこと」の想い出

俺は食い物の前で嬉しそうにしているイラストに弱い。

以前もドイツ語の教科書のイラストで、太ったドイツのおっさんがハンバーガー(サンドイッチ?)を両手で持って、ニコニコしているのを見て、なんというか泣きたいような、そんな気分になった。

こういう気分、分かるかなあ。

ま、別に分かんなくてオーケーなんだけど、いろいろ理由があると思うんでちとつっこむ。

以前も書いたように、俺はちと飯を分析的に食うところがある、というかあった(過去形のハズ)。それに俺は人の目とか、そういうのも気にする奴だった(過去形のハズ)。

んなもんだから、安そうなもの、粗雑そうなものを食って嬉しそうにするというのが、どうも気恥ずかしい、ということだった(過去形の……)。

なんていうかな。

例えばだよ? そのハンバーガー食ってめっちゃ嬉しそうなおっさんに、誰かが「あら、そんなもので、あなたの舌は満足なの?」とか言われると、なんだかさ、なんだかじゃん?

更に「ほら、こちらのお料理の方が上品ですことよ」とか言われてさ、そいでそっち食ったら、そりゃ確かにそっちの方がうまかったりしてね。

んで「ほうら。あなたの味覚と言いますか、食文化と言いますか……」とか言われちゃったりするとさ、なんかさ、あちゃーって感じじゃん?

そういうこと、なんか考えちゃうんだよね。


あるいはこうも考えられる。

欲望をむきだしの顔を見ると、その欲望が叶えられない時のことが可哀そうに見えるのかもしれない。

食事の喜びは直接的だ。だからこそ、それが奪われると直接的に哀しいし、怒りにもなりやすい。

「うまそうだなー」と思ってパクっと言ってめっちゃまずかったり、それを人にブン取られたりして「うおー!」ってなるのを見てしまって、なんだかな、という気分になるのかもしれない。

そんなことを感じているから、俺は小さいときから欲望を直接むきだしにすることはなかった(過去形のハズ)。


なんかそんなこと書くと思い出すことがある。

中学校の頃だった。弁当を食っていると、前にいた女の子が「お弁当、おいしくないの?」と俺に訊いたことがあった。なんかさ、あわれんだような声でね。

俺、おどろいたよ。自分がそんなにまずそうに飯を食ってたなんて。

でもね? 俺ね、その前までは「いつも、なんでも、うまそうに食べるねぇ」とかって親戚に言われてたんよ?

で、実際に珍味だろうが、ゲテモンだろうが、失敗した料理だろうが何だろうが方っぱしから食うわけよ。んなもんだから「残飯処理」とか言われたりしたし、俺はなんでも食うって妹と父親にはバカにされたりしてね。

ほら、でも、それって結局パフォーマンスだったりして、何も考えてないと、ホントまずそーに食ってたんじゃないかな、俺。んで、そういうの改めようって中学の時にも思ったりした。


ふー。なんていうんだろうな。

俺はじいちゃんっこでさ、両親に育てられたって言うよりかは、祖父にそだてられたんだよね。んで、そのじいちゃんってのが、まあ、食い道楽っていうか、まあグルメっぽかったりしたわけ。

俺は蕎麦とか鰻とか寿司とか天麩羅とかカツレツとかステーキとか、小さい頃から食ってた。「じゃあ、今日は浅草の○○で天丼食うか。あそこの天麩羅は大きいよなー」とかね。近所の鰻屋とかじゃ常連で「○○のぼっちゃん」とか呼ばれたりしてた。はは。

んで当然じいちゃんは「おう、うまいか?」とか訊くわけで「うまいよ」って答えるわけ。まあ実際うまいわけだしさ。んで「こことあそこじゃどっちがうまい?」とか訊くわけよ。んで「そうだなー、あっちかな」とか答えてみたりしてたわけ。

まあ、恵まれまくってるわけなのかもしれない。

でも祖父の金はうちの親が出してるわけで、んで、その祖父が無駄遣いするってのは俺の両親は迷惑ってわけで、俺がうまいもん食うのを知るとさ、俺の両親は当然、俺に嫌ーな顔するんだよね。

でも、両親は気が弱いからさ、直接祖父には言えなかったりするわけ。はは。

俺はさ、飯食いながらさ、小さいころからさ「ああ、じいちゃん、もうちょい安いもん食べようよー」とか思ってたわけなんだよね。

実際好きな「食べ物は?」とか訊かれたら「おから」って小さい頃、答えてたと思う。それが安いってのを聞いてた(昔の人は口が悪いから「ありゃ、鳥のエサだ」とか言ってた)のも大きな理由の一つだったと思う。ま、実際、今でも好きだけどね。

ま、そんなこともあんのかもしれない。


俺の祖父は市議会議員とかやってて顔が広かった。だからどこでも先生、先生って呼ばれてエラそうに振る舞っていた。

そんな祖父は近所のヤクザと仲良しで、まあ、悪いもん同士なかよくやっていた。祖父は「先生」でヤクザは「親分」だった。俺もその親分には本当にずいぶんと可愛がられた。

二人はよくうまいもんを食いに出掛けた。二人は浅草の街を肩で風を切って闊歩した。俺は二人が楽しそうに「ワル」をするのを見ていた。

でも、正義感の強い俺は、うまいもんが食えても、おもちゃを貰えても、ワルは嫌いだった。


その親分は刺され、半身不随で歩くことも話すこともできなくなった。そして、ある冬の日の夕方、自宅の風呂場で自殺をした。

祖父は糖尿病が悪化して心臓が壊れてゆき、親戚にも実の息子にも見放され、老人ホームを転々とし、最後は恐ろしく殺風景な病院で死んだ。

俺は祖父も親分も好きだった。尊敬もしている。本当に本当だ。

でも、そういう死に方って、自業自得なんだろうな、と結局は思う。

死ぬ前に、俺は祖父の見舞いに行った。そして、その病院の殺風景さと祖父の惨状に驚いた。祖父は寝返りをうつのも激痛に苦しみ、口をまともに動かせるようになるのに10分はかかった。はは、マジで涙出たよ。

俺は「じいちゃん、何か食いたいか?」と訊いた。

祖父は「スシ」と答えた。

俺は近くの「とんでん」で寿司の折詰を買って来た。じいちゃんはまともに口を動かせないもんだから、俺が寿司を口にもって行ってもうまく食えなかった。結局3つか4つを食べはしたと思う。

食い終わると祖父は、うまいもんの話をした。近所の鰻屋や浅草の天丼の話もしたと思う。

食うことは壮絶だと俺は思った。そして悲劇と喜劇は紙一重だと。

2007-02-03

海原雄山とメガマック

以前、どこかで海原雄山が高級車の後部座席で豪快に笑いながら「メガマック食いたいな」と言っているマンガの一コマを見た気がする。

んで「おいおい、雄山がメガマックかよ」って笑った訳なんだが、なんだか笑うだけじゃなくて、ごちゃごちゃと考えてしまった。

んなわけで、ちと書く。

海原雄山が「メガマック食いたいな」というのは「そんな海原雄山ありえねー」と笑えるが、実はそれほどありえないことではない。

CMを見れば一流シェフが即席麺や冷凍食品、レトルト食品、コンビニに置いてあるようなデザートなどに対して「これ本物」とか「うまい」とか言っている。

そもそも海原雄山は漫画のキャラであり、著作権保持者と広告作成者との交渉次第では、テレビで海原雄山が「メガマック食いたいな。がっはっは」と言うのはありえることである。

グルメ、美食の気違いである海原雄山と、食い物の名称という枠組みを越えてしまったメガマックの結婚はありえるのである(それにしても、なぜメガマックという名称はこんなに食べ物から離れているのだろう)。


ところで考えるのだが、「グルメ」という現象と「ファストフード」「コンビニ」「ファミレス」という現象は同時期に進行したように思う。

というか、この現象は同時期に進行しただけじゃなくて、本質的に同じ現象の表と裏だったという気もする。

別に説明しようって気はしないんだが、地方ごとの味覚、家庭ごと味覚というものが滅んでいった現象なんだと思う。統一した味覚が普及し、それ以外を排除していった現象なんだろう。

なんていうかな。俺は本質的に「ファミレス/ファストフード/コンビニ」と「グルメ」というのは同じ食文化の方向性だと感じている。素材や手間が異なるだけで、方向性としては同じだろう。

伝統的な家の料理、伝統的な郷土料理というのは、そうした方向性と完全に異なっている。

「ファミレス/ファストフード/コンビニ」と「グルメ」にある原理は、「値段」と「味」の配分の問題でしかない。費用(値段)と効果(味)の問題だ。この二極の原理に基いている。そしてその軸において消費者とのコミュニケーションがはかられる。

そしてその「味覚」も統一的に普及することに成功したため、どこに言っても「うまい」ものが食べられる時代となった。金があれば高そうなレストランに入れば、日本全国だいたい同じような味のものが食べられるし、金がなくてもファミレス/ファストフード/コンビニは同じ味を提供している。

家庭料理や郷土料理はその原理だけに立脚していない。それらにおいては、伝統や慣習、ならわし、それに健康などが「味」や「値段」よりも優先されることがある。

なんでも好きなものを食っていても病気になるから、薬としての食事も考案されるだろうし、その季節に何を食べるとよいか、どう調理するとよいかという伝統も生まれる。また地方ごとに多く収穫される食材があるわけで、これを飽きずに食べる方法や貯蔵する方法も生まれるだろう。

こうした「生活の必要」が生んだものが、本来の食文化だったと私は感じている。

流通はそうした文化を破壊する。

あらゆる食材が入手できる流通に支えられた上でのグルメなど、文化ではないと感じる。「うまいものを食いたい」というのは、ただの「わがまま」だ。

だから、俺にしてみたら海原雄山もメガマックも趣味の悪さという点では同じになる。「何が至高の味だよ、ばーか。その前に女房子供と幸せに暮らせよ」と。


ところで、逆に俺は「メガマック食いたいな。がっはっは」という人になりたいな、という憧れもあったりする。それくらい現代という時代が提供しているものに、ストレスなく喜べる人間だったらな、と。

ま、本気でなる? とか訊かれたら、いや、絶対やだ、と答えるだろうけど。

2007-01-24

食の大系

考えるのだが、下のような哲学に基いた食の大系を考えたい。

「おいしい」ではなく「体にうまい!」「体にガツンとくる」というのがテーマ。

1.「スパイス」「香辛料」「ハーブ」「漢方薬」などと呼ばれるシソ科やセリ科などの植物を中心とした味付けで塩分を控える

2. 大豆(豆乳、納豆、豆腐など)や乳製品(牛乳、ヨーグルト、チーズなど)で蛋白質を摂り、肉類を控える

3. 冬は根菜(人参、大根、芋など)や香味野菜(ネギ類、ニンニク、ショウガなど)で温め、夏は葉菜やウリ科(キュウリ、ゴーヤなど)、ナス科(ナス、トマトなど)の果菜で涼しくする

4. 生、焼く(空気)、煮る(水)、揚げる(油)もバランスさせたい

5. 酢、酒、発酵食品もより有効に利用したい

2007-01-06

体で食え

最近、カレーの連荘。毎日スパイシーな料理を食っている。

ラムカレー、タイのグリーンカレー、四川風(?)スパイスたっぷり麻婆豆腐、肉じゃがにコリアンダーやらクミン、赤唐辛子、胡椒、鬱金、生姜、ニンニクをぶちまけた不思議カレー……、そうそう普通のルーから作ったカレーも今日食べた。

別に元気がめちゃ出たとか、そういうことじゃないが、まあ、雑感を少々
あ、別に誰かを批判しようとかしてないんで、そこんとこ、よろしく

以前にも書いたが、食と医はそもそも同じであるべきものと思う。つまり、日常の食事が、病気の予防であればいいと思っている [1]。まあ、ミノモンタ路線と言われれば、それまでだけどね。

食事で健康という考えのの中でも、現在はスパイスに注目している。スパイスと言ってもハーブだとか香味野菜だとか根菜だとか薬味だとかもここではスパイスと呼ぶことにする。

日本はあまり肉とか食べなかったからスパイスとか発達しなかったんだろうと思うが、やはり肉を食うときは毒を消すためにスパイスを多くとった方がいいんだと思う。そもそも、ほかほかして元気になるし。




こういう医食同源を考えてると、グルメちっくに「うまい」とか「まずい」とかって何だかバカらしくなる。

というか、俺もかなり分析的に食ってしまう方なんだが、そういうのって最低だと思ってる [2]。が、最低だと思うのだけれど、なかなか治らない。




一部の人間には俺はグルメとか思われたりしてる訳なんだが、なんだかな、と思う。

確かに肉、野菜、魚、コーヒー、酒など自分の感覚で評価が下せる。というか、下すも何も、頭にポンポン出てきてしまう。んで、素直に感動とかしちまうんで、それを人に話しもんだからややこしい。

味の評価がポンポン出てこない人や、無理しないと出てこない人は、俺みたいなタイプをうらやましく思うらしい。まあ、わからんでもないが……あまりいいことではない。

というか、最近味を云々するのは、下品かな、とか思ってみたりもしている。だって、食とは自然の恵みを肉体が効率良く吸収するための人類の文化であって [3]、それを感謝とか抜きに金の力でホイホイ運んだり火を使って「うまい」の「まずい」のと言うのは、食文化の本質に反する行動ではないかと思うんです。

逆に「こいつは何でも食う」とか言われると喜んじゃいます、俺。




だから、何でも「うまい」と食べられることが、食事という営みにおいては最も上品なんじゃないか、とか。

しかし、それだと作る人間がだらけるかもしれない。

それはいかん。自然の恵みに人間が力を加えて、更に食の効果を高める営みが食なのだから、その営みを放棄するのはいけない。だから、積極的に状況に合わせて効果的な食事を作るべく、努力が必要なのは言うまでもない。

そういう問題じゃなくて、食べるときに自然への感謝がないのは下品だな、と。それだけ。




脇道から戻ると、 俺たちって世代として味覚が変なんじゃないかとか思ってみたりしている。

さっき「分析して食うやつはクソだ」とか書いといて、こういうこと言うの変に思うかもしれないが、こっちが本筋。

味覚ってのは、上の話からつなげるけど「自然の恵みを効率良く肉体が吸収するため」にある能力だと思う。だから体に良いのがうまいのが本当だと思う。新鮮だったり、自分の足りない栄養が入ったものが「うまい」と感じるはずだと思う。

つまり、その場、その場で食いたいもんは変化するはずであり、人によっても違うはず。客観的な「うまい」なんて成立するはずはない。

しかし、この体にいいものを「うまい」と感じる機能が、俺たちは弱っているんじゃないかと感じている。




これは「グルメ」という幻想、客観的な「うまい」が成立すると思い込んでいることによるんじゃないかと。

だから「うまいものが分からない」とか言うやつがザラにいる。「酒の味、教えてくれ」とかなんとか。あのね、教えてもらわなきゃ分かんないのはラッキーなんだよ、お前には必要ないんだよ、と思う。




ホントは客観的に「うまいもん」なんて無いといいたいくらいだ。

まあ現実的にある程度の線でみんな「うまい」と思うのがあるから難しいんだけど、誰もが同じであって、その基準からそれると「味覚音痴」っていう排除の論理があるのが気持ち悪い。

んで、そういう「味覚音痴」の人ってのが、俺の言う「グルメ指向」の人なんだ。

自分で何がうまいのか自信が持てない。だから人の言ってた「うまい」に追従する。時に、人の言うことは間違いや勘違いであったり、同じ調理人だって失敗することもある。

それでも、そうした目の前の現実を無視して「ここは、おいしい店だ」とか言うから「味覚音痴」ってことになるんじゃないかな。




食うというのはそういうことじゃないと思う。

必要な栄養が効率よくとれることが一番であり、味は飽きなければいいはずだ。

文化として保持されて来た「普通の」手法を「普通に」きちんと行えば、ある程度「うまい」はずであり、この受け継いだ手法をきちんと皆が行うということが食文化なんだと思う。

金で世界中からもってきたもんを、ごちゃごちゃやれば、そりゃうまいもんできるだろうけど、それって食文化じゃないと思う。




なんだか訳わかんなくなったので、この辺で。

まあ、とにかく、食うときは、目の前の食い物に全力で向かっていって、食うべきなんだと言いたい。

そん時「あの店では」とか「あの時のアレは」とか考えない。つまり比べない。記憶と目の前の食い物を比べちゃだめなんだ (まあ、ほとんど自分に向かってだな、このセリフ)。

んで、ストレートに体が欲しがっているものを、人の目を気にしないでガンガン食べろ。

でも自分が勘違いしてる可能性もあるから、ちゃんと体にきくこと。そうすれば、身体と味覚のバランスも自ずから整うんじゃないでしょうか、とか。はは。わけわからん。






notes


[1] digi-log 2006/11/07「医食同源」 では以下のように書いている。

食物に健康上の効能があるのは当然のことかもしれません。食物は身体をつくりあげる材料です。食物の栄養がなければ私達は身体を維持できません。食物が身体に影響を与えるのは、ごく自然なことです。

元々、薬も自然にあるものを加工したものです。その多くは元々薬草として知られたものを症状に合わせ、身体に吸収しやすいようにしたものだったはずです。現代の化学やナノテクノロジーで作られる薬品は自然界に存在しない物質を利用していますが、それ以外のものは自然界に存在するものの中の病気に効くエッセンスを絞り出したものです。

どうしても、という場合は仕方ないですが、できるだけ普段から身体にいいものを食べ、ちょっとした病気も自然のもので対応できるのが人間の自然なありかたという気がします。健康は対処両方より、予防の方が断然ラクですしね。


[2] finalventの日記 2006-11-26
「太宰の人間失格は私の愛読書だった」
にもこうある。この感覚は完全に私の感覚とも共通していると言える。

太宰の人間失格で一番の要所はたぶん、こっそり自分には食欲というものがない、と語っているところだ。

 私も食欲というものがない。まあ、ないわけでもなく、おやつとか食ってるわけだから、嘘べぇであるが。このあたりはうまくいえない。

 他人がもくもくと食っているのを、私や太宰のような人は、アライグマのように見ているのだ。この変な感覚というのは、ある一群の人に共通だろう。

 もうちょっと言うと、自分がいやになるのだが、自分の味覚が優れているとか言うつもりはないのだが、どうも味を分析的にとらえている。すごく残酷に料理の味を見ている。もちろん、そういう自分がいやで自暴自棄に食ったりもするのだが。

 それでも、ま、ここまでは許せるかとか食い物を審判している。実は、それは食い物じゃなくて他者をこっそりと審判しているのだ。まあ、そういう人間類型なのだろうと思う。こういう人間はサイテーだと思うし、なかなか救いようがない。


[3] digi-log (2006/11/12)「食文化」 では以下のように書いている。

食文化も、農耕と同じように、エネルギー効率化の技術であったと思うんだ。消化をたすけ、病原を排除する。一つの食材が大量に取れる地域では、同じ食材を異なる味にし、また保存性を高めることは大切だったと感じる。
(……)
限られた恵みから食の効果をいかに引き出すか。これが食文化だと私は考えるんだ。

2006-11-12

食文化

ちょっと空想する。

食文化も、農耕と同じように、エネルギー効率化の技術であったと思うんだ。消化をたすけ、病原を排除する。一つの食材が大量に取れる地域では、同じ食材を異なる味にし、また保存性を高めることは大切だったと感じる。

土、水、そして太陽の「恵み」をいかにいかすか。石油はおろか石炭すら無い社会では、動植物油か薪、木炭がせいぜいだ。枯渇性かつ環境を汚染する強力な化石資源利用はのぞめない。限られた恵みから食の効果をいかに引き出すか。これが食文化だと私は考えるんだ。

だから私は保存食や移動食に興味がある。伊勢物語……じゃない、土佐日記って確か米を干したの(「こわいい」だっけ?あれ全然違う?)を粥にして食べたりするシーンあるよね。干物食べたり。ああいうのに「へえー」って感じる。

精進料理にも興味がある。最近も水上勉の『土を喰う人々』を古本で十円で買った。まだちゃんと読んでないのだが、拾い読んでも、その姿勢の美しさに興奮する。

所謂「グルメの本」より、食うこと貪ることのすさまじさについて書かれた本に興味がある。『もの食う人々』みたいな、ね。

更に気違いに書くと、その日々の食の熱意と限界、そのすさまじさといじらしさの上においてのみ「まつり」の饗宴は理解できると思う。

想像して欲しい。日々の貧しい粗食と祭の日の饗宴の激しいコントラストを。現代のグルメな人よりも、はるかに強烈な食の体験がそこにはあったと思う。

酒と肉の世界。日常でない時間では、タブーは破られる。動物は丸焼きにされ、油は耿々と夜空を照らす。穀物は空高く投げられ地面に散り、酒は飲まれるにとどまらずに浴びせられる。箸は立てられ、食器は打ち鳴らされる。

また「まつり」における贄も、この文脈で理解できるかもしれない。最も失いたくないものだから、贄となるのである。最も大きく美しい羊は我(= 鋸)によって裂かれ、外形から内蔵に至るまで羊が神に捧げる犠牲として義しいことが示される。漢字で「義」は犠牲の羊が完璧であることを意味する。

罪から始まる起源への想起、その祈りとそれでもなお未来を築く決意が「まつり」なのだと感じる。

って何のはなしやら。