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食文化について考えて久しい。「食」に対し自分が感じていること、一般的な「食」の「常識」に対する反発などをどうにか言葉にしたい、と感じていたのだが、最近、その方向性が見えてきた。
まあ、そんなポイントというかぼやきを少々。
さて、どこから話そうか。
まず料理とはレシピではない。つまり、レシピを見ながら料理を作ることは料理ではない。食材を買って来てレシピに沿ってメニューを作ることは料理ではない。いわんや、食文化とはレシピの集合体ではない。
なぜか?
それは私の料理の定義による。私の定義によれば、料理とは「やりくり」であるからである。料理とは与えられた状況に対する「やりくり」の技術だからである。どういう食材(や調味料、保存食)と調理器具があり、時間的、文化的(特に医療・宗教)な制約がある上で、それを保存したり、(食べる人間にとっておいしく)食べられるようにする、人間の工夫、やりくりを私は料理と呼ぶ。
その「やりくり」「工夫」の無い料理は料理ではない。少なくともそうした料理は食文化に貢献することはない。食文化の単純な消費でしかない。そしてすべての消費がそうであるように、そうした消費は食文化を破壊する。
これは「料理」という言葉の問題である。「まあ、うまく料理してやるよ」という日本語の発言は、与えられた状況をやりくりすることである。もし、そこに創意工夫が無いときは、私たちはそれを「料理」とは呼ばないだろう。
と、どんどん電波なことになってしまった。ふむ。まあ、続けるか。
そして食文化とはそうした「工夫」「やりくり」が創発したものである。「やりくり」に関する効率や組合せの問題から、自然に方向性が生まれるだろう。その方向性を決定するのは、実は人間の味覚の問題ではない。そうではなく、食材と器具の効率と組合せであるので、方向性を決定するのは、食材と器具なのである。
すると、食文化とは、存在する食材と器具の問題につきる。どのような食材があり、どのような器具があるかが、食文化を決定する。
「どういうものを食べたいか」という人間の趣向が食文化を生み出すのではない。既に成立した食文化によって人間が影響された上でしか、人間は食への趣向は持ち得ない。食の趣向は食文化があった上でのみ成立し、食文化は食材と器具の組合せと効率的な使用(つまり工夫)により創発する。故に、すべての食文化とは食材と器具がどのように存在するかに依存する。
もちろん、与えられた条件で、人間がどのような創意工夫を発揮するかも大きな問題だが、それは単純に偶然の問題とも考えられるし、それよりも言いたいのは、大概、人間の創意工夫といっても大枠は同じであり、同じような条件が与えられれば同じような工夫をする(とはいえ、それが既に成立した食文化の趣向に影響を与えられる場合もあるが)。
どんどんボロボロだが、まあ、続ける。
どうして調理の工夫の大枠が同じなのか? 創意工夫は無限ではないのか? 料理は無限ではないのか? こう思うかもしれない。
それはテレビの見すぎである。確かに「レシピ」は無限であるが、実はそれは「組合せ」の問題であり、料理における方法は有限である。
私の考えによれば、料理とは食材の以下の方法の有限の組合せである。
・切る(剥く、おろす、つぶすなども含む)
・和える(混ぜる、振り掛けるなども含む)
・火を加える(後述)
これらの操作を行えば全ての料理は完成する。もちろん、食材もほぼ無限にあり、操作を無限につなげることも可能と言えば可能である。しかし、入手する食材や操作の回数(所要時間)に現実的な線が存在するだろう。
そして操作の可能性すら、存在する調理器具に依存する(特別の事情が無い限り、すりこぎの無いところですりおろしはしないし、オーブンの無いところでローストはしないし、コンロの無いところで炒め物はしない)。
既に
どういう食材(や調味料、保存食)と調理器具があり、時間的、文化的(特に医療・宗教)な制約がある上で、それを保存したり、(食べる人間にとっておいしく)食べられるようにする、人間の工夫、やりくりを私は料理と呼ぶと書いたが、入手食材に限度があり、調理器具が操作を限定し、更に時間的制約が操作回数を限定する。ある状況における料理の可能性は現実的には有限である。
そしてその有限の可能性の中から人間は最善と思う行動を選択する。効率の問題から調味料や保存食は同じものが使用されるからベースとなる味付けは決定され、趣向が生まれるだろう(日本の大豆発酵食品、インドのスパイス、フランスならソース)。その趣向が他の料理にも影響を与え、そして更にその料理が趣向を形成してゆく。
そして、その体系化を私は食文化と呼ぶ。趣向とは本質的には食材と調理器具の効率的な使用によって生み出されたものである。大切なのは「趣向」の問題ではなく、「有限の可能性」、つまり食材と調理器具が食文化を本質的に決定することである。
調理器具の問題を考えたい。これが料理を大きく左右する。
典型的なフランスの家庭に炒め物が出来るガスコンロはなく、日本の家庭にバーナーやオーブンはない(両者とも最近はあるが)。魚焼きグリルが日本ほど普及している国はないだろうし、圧力釜がインドほど普及する国も無いだろう(インドは豆や根菜を利用した料理が多い)。多くのアメリカ人にとって白米を炊く専用機の存在は不思議なのと同じく、多くの日本人にとって朝の野菜/フルーツジュース専用のジューサーの存在は不思議だろう。
これは「さて、ちと洒落た料理でも作るか」と料理本を見た時にぶちあたる壁である。「オーブン? ねーよ」「二時間煮ろ? ざっけんな」(これはオーブンに鍋ごと入れてほっとけるから出来る技といえる)「バーナーで肉の表面をあぶれ? おいおい」「チーズおろす?」「肉を叩く?」とか。食文化が違うと台所に置いてある道具が違う。
また、食材でも同様に「そんな食材うちにはありません。というか買いに行くのも面倒です」という壁にぶちあたる。最近ではバジルくらい常備する台所も増えただろうが、それでもイタリアンやらフレンチやらを作るだけの食材が常備されている家は少ないだろう。
そして、そうした台所から無理やりイタリアンやフレンチを作るもんだから話がおかしくなり、大して美味くも無いのに「いやあ、料理した」という気分になるのである。
元々冷蔵庫には普通の食い物があるというのに、レシピを見て食材を買いに行き(場合によっては道具も購入して)、自分の食文化と違う料理を作るのは料理の勉強というよりかは、それは「料理」そのものの破壊じゃないだろうか。
レシピばかりを見ても、道具や食材に対する知識や技法を知らなければ、浅い料理しか出来るはずは無い。料理のよしあしとは手順が必要なのはもちろんだが大切なのはコツである。そうしたコツは文章になることは無く、その土地土地、その家々で、口伝えで受け継がれてきたのだろう。コツの伝承が食文化である。
料理とは完成品としてのレシピやメニューではなく、調理器具と食材への知識や技法、つまりコツこそが食文化にとって肝心なのだろう。
はぁ、めちゃくちゃだな。なんか疲れたのでまた。