妙なハイペースで読書法を書いてきた。簡単に言えば「高校時代は小細工抜きに、幅広く読め。その時新刊書店で売っているニセモノに気をつけろ」ということだ。
そのため読書法(1) 読むべき本を知るでは「全集や世界の名著と図書館の司書を利用しろ」と書き、読書法(2) 本の読み方では「ただ、ひたすら多読し、気にいったものは何回も読め! 音読しろ! 書き写せ! 著者を友達にしろ!」と説いた。
とにかく「お勉強」で読むことだけはやめてほしい。そんな読書は何の役にも立たない。つまらないと感じながら読書をする義務はない!
こんなことを書いていると、自分のやった失敗も含め、ありがちな間違いについて書いてみたくなった。
1. つまらない本を無理して読むはやめよう
有名な本でもよくある。義務感で読みたくなるものだが、まだ自分には早かったと思うか、「歴史が間違っている!」と叫んで早急に本棚に戻すこと。まあ、それでも読んでしまうこともあり、読んだら読んだでおもしろかったということもないわけじゃないから、強制して「戻せ」という気はもちろんない。ただし、「つまんねーな」と思いながら読んで「ああ、無理してでも最後まで読んでよかったよ。さすが歴史的名作だ」という気分になったことは私は一度もない。「け!有名なくせに最後までつまんねーよ」がオチである。
2. スカスカな本を「スゴそうだ」と勘違いするのはやめよう
これは新書でよくある。なにやらすっげー最新のことが書かれていて、その智恵によって人類の未来が変わっていくようなことが書かれている本がある。まあ、本は売り物だから、ある程度の誇張は仕方ないが、昨今、特に大袈裟で紛らわしい本が多い気がする。でも、残念ながら、大半の本は最後まで読んでも「で、何がそんなにスゴいの?」という気分で終わる。一番すごかったのは「まえがき」と「帯」というパターンである(つまり、作家より編集者に才能があるパターン)。残念ながら、本を発見する技術がないうちは、かなり騙されやすい。純粋に世界の平和を願う高校生ならなおのことである。
新書を読むならば、本当に定評のある新書がよい。詳しくは司書に聞けば答えてくれる。司書と話すのに気後れするナイーブな君は、ひとまず昔の新書を読むとよい。図書館であるならば汚れている新書を読めば間違いない。残念ながら最近は薄い新書も増えたが、そもそも、新書は良書を薄利多売で普及させるために存在しているのであって、分野も充実しているし一定の線を保ったものが多かった。また、有名な学者の本は、やはりそれなりである。
3. 「教科書に載ってる本読むなんてダッセー」という勘違いはやめよう
これは私がそうだった。国語の教科書や歴史の教科書に載っている本はわざと避けた。「有名じゃないけど、俺が自分で見つけたんだよ。やっぱり、よかったよ」とかアイドルオタクじゃあるまいし、メジャーなものを避ける理由なんて全然ない。どうもガキのうちは「俺のもの」「私が見つけたもの」という意識が強いが、そんなことは小さい問題である。そもそも教科書に載るくらい凄い本なんだ、と素直に手に取るべきである。そういう本は、現在の社会が作られる上で(高校レベルの教科書に載るくらい)大きな働きをしたのであり、そうした本を味わうことは、現在の社会を知ることにもつながる。特に、ガキは自由とか愛とかそういうことを考えがちだが、そういうことは西洋の近代からの影響なわけで、そこら辺を読まずにそんなことぼやいても、ただのアホなJ-POPにしかならない。
4. 「岩波って汚なくね?」という偏見はやめよう
君が普通の高校生なら岩波に偏見なんてないだろうが、残念なことに、私は岩波に偏見があった(誤解を避けるため、どういう偏見かはここに書かない。近くのおっさんに聞いてみよう)。現在では「アホか、俺」という偏見である。また、岩波は古いので図書館で見掛ける本が物理的に汚ないだろうが、それも「ああ、偏見、偏見。文字は読めるし」と乗り越えてほしい。岩波は新書も文庫も素晴しい。是非、片っ端から手に取るべきである。
現代の図書館の最大の問題は、価値ある新書や文庫が汚れていることである。これは評価が高く、多くの人に読み継がれたことを示すのだが、現代のガキにとっては手を出しずらいと思う。我々おっさんは「最近のガキは、甘ったれてる!」と普段は発揮してない男らしさを、ここぞとばかりに発揮しないで、たいした値段じゃないんだから、価値ある新書と文庫は美しい新品を図書館に入れるべく努力すべきと思う。ただ、若者も、汚れに負けず、価値ある本を読んで欲しい。慣れれば大した問題じゃない。
5. 「なんか漢字が変な本って、日本がヤバかった時の本でしょ? 読まないでいいよね」という偏見もやめよう
これは「おい!『言ふ』ってなんだよ? 『言ふ』ってさ!」という歴史的仮名遣いにも共通する問題である。ちなみに「ん? いふ? if?」という君はママのおっぱいがお似合いである。
広く読書をすれば、新潮や岩波の文庫の中にはそうした表記になっているものがあるのに気がつくだろう。また、君の学校の図書館にある、漱石や鴎外の全集も旧字旧仮名のものを入れている筈だ(そうであってほしい)。
実はこの問題は高校生の君が感じているよりも深い問題であり難しいのだが、ひとまず、古典の先生あたりに「旧字の漢字の一覧表ってありますか?」と言えば(あるいはネットで探せば)、漢字の問題はクリアするはずだ。君はその表を見て「ああ『舊』は『旧』なんだー。へー」と思ってひたすら覚えればよい。変更があった漢字の数は多くない。また、昔の字形を覚えれば漢字の知識が飛躍的にアップするだろう。
ただし、間違っても「この漢字読めません」と言ってはいけない。「辞書をひけ」と言われる可能性がある。常用漢字の制定の問題を正確に説明できる古典の先生は既にほとんどいない。この点でも国語の問題は難しい。
仮名遣いは古文の授業を普通にやっていれば、小説や哲学を読む程度なら問題はないだろう。あまり深いことは考えずに読んでいれば、それなりの良さが自然にわかってくることと思う。ただし「戦前の文学は旧字旧仮名で読まないと醍醐味がない」などとは人に言わない方が無難である(たとえ、そう感じたとしても。そういうことは二十になってから)。ましてや、通常の文章を旧字旧仮名で書いてしまうと、先生に怒られるはずだから、やめておこう。
この漢字や仮名遣の表記の問題は、政治的で文化的な、とても難しい問題なのでここで説明はしない。あまりこうした問題に高校生が深入りしてしまうことに、私は責任がとれない。興味があればネットで調べるなり、司書か古典の教師にアドヴァイスを受け、本を読むのもいいかもしれない。ここでは読むべき本も挙げないことにする。
ちなみに、コンピュータの字形と一部の新聞で使われる字形、書籍で使われる字形などは、実は確固とした状態ではなく、それぞれ流動している。目敏い君は読書する中でそれを発見し「あれ、この字、形が違うな。なぜ?」と思うかもしれない。すまないが、大人の世界は大変なのである、とだけ理解しておいて欲しい。あまり、若いうちにそういう問題に深入りするようなことは書きたくない。君が思っていたほどには、世界は確固としたものではないのだということだけを知っておけばいいと思う(もちろん、何事も考えるのはいいことであり「考えるな」と言いたいわけじゃない。ただ「これを考えろ」とは言いたくないだけである。字形や表記の問題は泥沼だと私は感じている)。
話が逸れたが、私が言いたいのは仮名遣や字体の問題はあるが、君たちはそれを学び(大した勉強じゃない)、乗り越えて欲しい。旧字旧仮名の文章は読めるようになっておいて損はない。是非、臆せず、トライして欲しい。
明治は日本文学の高みである。まだ、たかだか百年前後しか経っていない。是非とも君達はその本質を受け継いで欲しい。
6. 「あの人(思想)ってヤバいんでしょ? 読まない方がいいよね」という偏見を捨てよう
固有名を出しても大丈夫か不安だが、マルクス、共産主義、また、そうした影響下の文学(プロレタリア文学)は「ヤバっ!」という感じだと思う。あとヒトラーや戦前の日本の人達などのファシスト、戦後の「右翼」と呼ばれる人達なども同様だろう。
そうしたものを積極的に読めという気ももちろん毛頭ないのだが、そういう本も別に避ける必要はない。幸い日本は思想の自由は保証されているのでどんな本を読んでも罰っせられることはない。「どんなことを書いているんだろう?」という好奇心は十分に発揮できる。自分の考えをまとめる上で、ある程度主流じゃない考え方も見ておくと、奥行きがますことと思う。ちなみに私はそうした本のいくつかは、とても面白く読んだ。
なんだか、最後の方はちとやばそうな話になりましたが、別に気にせず読みたくなければ読まないでも大丈夫です。とにかく、自由に情熱的に読書をして欲しいものだと思います。