2007-03-26

読書法(1) 読むべき本を知る

このエントリーをはてなブックマークに追加
アドラー『本を読む本』の書評を書いたら、読書について少々書きたくなった。私なりの読書法を書いてみる。一般的に読むべき本については必読書150を参照。

全集を片っ端から読む

私は高校時代、図書館にあった全集を端から順番に借りていった。面白かったら読み、かったるくなったら読むのをやめ、すぐに次の本に進んだ。性格上、中途半端なことは苦にならなかった。そうして日本や世界の文学全集と世界の名著シリーズを撫でていった。こうしたプログラムを周期的に繰り返していた。そうして、ほとんどの本は途中で投げたが、何冊かは読了した。

今思うと、これはよい読書だったと思う。私は読書の友もいなかったし、読書法の本を読むこともしなかった(その時間あれば、一冊読むよ、という気分だった。故に『本の読み方』を読んだのは二十を越えていた)。しかし、歴史に残っている本を義務感ではなしにパラパラと眺めることで、自分の趣味が形成されていくのがよくわかった。

何度か全集を順番に借りてゆくと、以前は興味がわかなかったものが面白かったり、全然理解できなかった哲学書が急にすんなりと理解できたりした。そういう面白さもあった。そして、文学や哲学というものが、歴史として流れているのであり、一冊の書物すらも、その歴史として理解しなければ全然理解できないのだということを感覚的に理解した。

今はどうか知らないが、私の時代は全集が不毛の時代だった。「なんで、そんな昔のカスみたいの読んでんの?」という時代であったし、「そういう西洋的な『普遍』とかの時代は終わったんだよ。『全集』という響きに西洋的な理性主義を感じる」という時代だった。別に私はそうした意見と議論する気はない。「うん、そうだね、そうだと思うよ」と言う。

だから、全集を読めというつもりはない。別に文学や哲学を読めというつもりもない(本当だ!)。ただ、読書で何かを得たいのなら、ある程度の分量の本を、ある程度の時代に渡って、ある程度の回数読みこまねばならないし、そうやって下地を作れる時間を得られるというのは高校がせいぜいだろいうということだ。そうした力をこの時期につけておかなければ、必要になったときに苦労するのではないだろうか? 私は瞑想などを別にすれば、読書の技術がなければ思考などできないと思うし、言っちゃ悪いが、読書してる人としてない人はすぐに分かるし、その思考も(私の個人的な視点から言えば)明瞭に区別できるものだ。

図書館の司書と仲良くなる

そして若い人には図書館の利用方法を是非とも覚えてもらいたい。私は高校時代に図書委員長であり司書の人と仲良しで、様々な便宜を得た。司書は、図書館情報学のプロであり、検索能力は素人の比ではない。公共の図書館でもリファレンスサービスを利用しない手はない。相談さえすれば、どの分野であれ、有益な書物を必ず教えてくれるはずだ。

そう、少なくとも、新刊書店には絶対に期待しない方がいい。店員は完全に素人だし、おもしろいように見える本が並んでいるだろうが、断言してもいいが、そのうちのほとんどは何の役にも立たない。そうした「おもしろそうに見える、でもホントは全然つまらん本」しか読んだことがなければ、読書なんてどうでもいいただの趣味になってまうだろう。

買うか買わないかは本質的な問題ではない

よくある論争で本は買うべきか否かというのがあるが、以前は完全に「買う派」だったが、最近は、どちらでもいいと思うようになった。

理由の一つに、読んでる本を全部買っていたら財布が追いつかない上、部屋の床も抜けるからである。最近、床を心配して、本の六割を処分して、それでも本棚四つにばっちり詰まっている本を見た時、このままいくと、俺は図書室が必要になって、そのうち図書館が必要になるんじゃないだろうか、と感じた。

もう一つの理由として、図書館が便利だからである。インターネットで予約ができて、必要な本を揃えておいてくれるし、電話一本で延長もできる(そうすれば一カ月)。だいたいネットとにらめっこしながら良さそうな本をリストアップできる利点は大きい。本屋ではできないことだ。それに、つまらない本を拾っても頭に来ないし、軽い気持で借りた本が大当たりということもある。やや専門的に理解を得ようとしたら最低十冊程度は目を通したいが、そういう時にも適当に検索であたりをつけて、ゴソっと借りてガバーと読める。

と、書きながら、本棚を眺めると金の無い高校時代に買ったヘッセやドストエフスキー、カミュ、ニーチェの文庫本がいやでも目に入る。手にとると、紙はすっかり茶けているし、表紙はボロボロだ。金がないのに、本当に苦しい思いをしながら、岩波や新潮などの文庫本を買った日々を思い出すし、そうした文庫本を学ランにつっこんで、満員電車の中で必死に読んでいた日々を思い出す。だから、つまらなかったら本気で頭にきた。そして、そうした本は何度も何度も読んだ。十回以上は読んでるのもある。

当時、「これくらい知ってなきゃ」という本は全集に頼っていたが(そして、それらは飽きたらすぐにポイしたが)、本気で読みたい本には身銭を切った。明確に「図書館で借りて読む本」と「本気で読みたい本」というのがあった気がする。というか新潮に入っていたからだけかもしれない。今となってはよくわからない。ただ「これは一生読むな」という感覚であり、最後は「よっしゃ、新潮で出てるのは全部揃えちゃおー」というコレクターな気分だったのかもしれない。

やっぱり、買うのも悪くはないな、とも思う。というか、欲しくなったら買えばいいし、欲しくもないのに義務として買うってことはないってことかな。ま、つまらんが。

なんというか、本当に歳とったな、とドストエフスキーの文庫本見てたら、ね。はは。

関連エントリ