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私達は日々、携帯電話やコンピュータを利用している。このような道具を使って文章書くという言葉私たちの日本語の運用、ひいては思考というものに、変化を与える可能性はあるのか。またあるとすれば、それはどのような変化だろうか。
ひとまず、この問いに関連しそうな情報をまとめておく。
私はここでいたずらにテクノロジー恐怖論を唱えたいのではない。テクノロジーは便利にもなれば、不便利にもなりえる。あくまで使い方の問題であり、どのように発展させていくかという問題だ。そうした全体を考え、テクノロジーの未来を考える上でも、こうした視点は欠かせないと思う。
それに以下の情報が「正しい」のかすら分からない。ただ考え始めるきっかけにはなるかもしれない。少なくとも数人の人が「何かが起きている」とは感じている。その「何か」を知るよすがにはなろう。もちろん、その考える「方向」すら「正しい」か分からないが。
タイプ入力の特徴
まず、タイプ入力 (ワープロ書き、パソ書き、キー入力) についていくつかの文章を ひろってみよう。
例えば内田樹はこのように言っている。(参照)
文房具のテクニカルな条件の変化にともなって文体は変化する。
私の場合はワープロの登場によって、あきらかに文体に変化が生じた。
それは「無限の修正の可能性を織り込み済みで書き飛ばす」ことが可能になったことで 、それまでだったら「深追い」するはずのなかった「あまり追いかけても先の展望のな さそうなトピック」に対してマメに反応するようになったということである。
ワープロ導入によって、字数的にはそれまでの10倍以上のキャパシティが確保され、 それからあと私は「どうでもいいようなアイディア」を執拗に追い回すようになった。
阿部和重も読売新聞のインタビューでタイプ入力による文体の変化を語っている。(参照)
「器械を介して書く際、人格の乖離(かいり)が起こるのは避けられない 。少なくとも漢字変換の機能が介在するわけで、もうこれが自分の文体だなんてとて も思えない。作家がソフトに慣れる過渡期の10年でもあった。10代の女性の方が 、画面で文章を編集する感覚には優れていたりする。しかし文体信仰が簡単に廃れる はずはない。完全手書き派も復権してくるでしょう。」
インタビュアーは阿部の文学をこう解説する。
キー入力という手法の変化が、原稿と作者の間に新たな距離を生んだ。そ の距離を利用して阿部氏は、キレやすく多重人格的な、それまで日本の小説には現れ なかったタイプの人物を造形する。
二人はタイプ入力に対して肯定的である一方で、同様の変化に気づきながらも、それ を否定的に捉える人もいる。書道家・石川九楊がその一人だ。タイプ入力での文体につ いてこう述べている(『二重言語国家・日本』p.68)†。
筆蝕を欠いたワープロから文体が生れるかどうかは疑わしいが、[...]良く 言えば、私小説的膠着から解放された軽やかで、希薄な文体、また、自省が足りず、 飛躍に飛躍を重ね、あるいは馴れ馴れしくまた犯罪臭の強い自己完結的文体が生れて くる。ワープロ時代には推理小説や SF 小説が氾濫することになる。
また、他の石川の本からの、孫引きになるが博報堂生活総合研究所『生活新聞』 (No.395)では縦書きと横書きとタイプ入力での比較がなされたらしい。それによると、 書かれている内容の違いとしては以下のようになるらしい。
- 縦書きは、社会と自分との関係を意識している。
- 横書きは次々に心に浮かぶことをそのまま書き綴っている。
- パソ書き [タイプ入力] は、決意とともに明るい展望、または具体的な目標が結びの部分で語られる。
「文体、言い回し」の違いは:
- 縦書きは客観的。
- 横書きは私的。
- パソ書きは、ちょっとエンターテイメント。
特にタイプ入力の特徴は:
- 決意とともに明るい展望、または具体的に目標が語られる。
- 前向きの明るいトーンになる。
- 結びで「……」が多くなる。
こうした特徴の分析の妥当性は知らないという留保はした上で、実際に自分のものも含めて、ネット上で書かれたものを考えると特徴としては当たっているように私は思う。殊に、私もよく書くライフハック系、自己啓発系の文書がネット上で氾濫することはこのタイプ入力の特徴そのものであると言える。
以上のタイプ入力の特徴を私なりにまとめてみる。
- 楽である。
- 内省が少なくなる ← 楽であるからか
- 分裂的になる ← 日本語入力の介在
- 自己完結的・犯罪臭が強くなる ← 自省が足りず、分裂的になるからか
- 明るくなる ← 楽である & 内省が少ない
- 具体的になる ← 楽であるからか
こうした傾向についてどう考えるか。楽観的かつ具体的になり、楽であるのはキー入力の長所であると言えると思う。一方で、内省が少なく、分裂的・自己完結的となるのは端的に短所である。
この両方の側面を、私達は実際にブログや掲示板を覗くことで感じることができる (既にこの文書、このブログが例証である)。これが現代人の特徴であるのか、タイプ入力というテクノロジーが与えたものなのか、それともその相互作用であるのかを考えるのは興味深い……。††
ケータイ入力
携帯電話での作文についてはどうだろうか。先にワープロに対しては肯定的だった内田樹は否定的な態度をとる(参照)。
ケータイで映画評を書いて送信したことがあった。
まことに困難な仕事であった。
画面が小さすぎて、少し長い文章を書くと、 主語が視野から消えてしまうのである。
何度も自分が何を書いているのかわからなくなった。
ケータイでは複文以上の論理構造をもつ文は書けない。
それはいずれ「複文以上の論理階梯で思考する」習慣の消滅をもたらすであろう。
他の文書では「携帯メールを主要なコミュニケーションツールとする人々はいずれ『複文以上の論理階層をもつ文章を書くことができない』人間になる可能性がある」と述べている。(参照)
携帯メールの入力作業というのは、私には「書いてから1秒経たないと文字が見えてこない鉛筆」で文字を書いているようなもたつき感をもたらす。
私のようなイラチ男の場合、ときどき誤入力をして意味をなさない同音異義語が画面に出てくると、こめかみに「ぴちっ」と青筋が走り、そのまま「え~い」と携帯電話をゴミ箱に投げ捨てたい衝動を抑制するのに深呼吸をせねばならぬこともある。
このような「どんくさい」ツールは複文以上の論理階層をもつ文章を書くことには適さない。
論理の流れは感情の流れより「速い」からである。
親指ぴこぴこではロジックの速度をカバーできない。
文房具の物理的限界が思考の自由を損なうということはありうる。
ここで提起されているケータイ入力固有の問題は
- ディスプレイの小ささ
- 親指の入力の遅さ
更に言えば、ディスプレイの小ささの話でも、複文が表示されないということはな いが、複数の紙を広げたような一覧性は、通常のパソコン画面では得られない ‡。
さて、こうしたケータイがある程度の論理構造を持つ文書を書くのに適さないとすれ ば、ケータイによるメールは自然にシンプルな構造をもって書かれることになるだろう 。すると読者は読むのが楽になる。
書く者の不便は読む者の利便につながることがある。実際に、パソコンでのメールが 普及したばかりの頃、書くことと送信することの容易さから長いメールが氾濫した時期 があった。これは書く者の楽さが、読む者を苦した例だ。同様に、いま私が書いている このような長く勿体ぶった文書を私はケータイでは書くことは想像も及ばない。もしケ ータイで書くとすれば、よりシンプルな表現となるだろう。それは読者の負担を著しく 軽減するはずだ。‡‡
一方で、多くのケータイ小説は短文の連続であり、改行の連続である。つまり段落と いう構造を持っていない。それでも一定に意味内容を飽きさせずに伝えているのは、イ メージを伝えやすい典型的な表現や心情描写が多く利用されているからだろう。
これは人気のあるアニメーションの絵が全てシンプルであることを想起すればいい 。未来から来たネコのアニメにしても、アメリカのネズミのアニメにしろ表現はシンプ ルであり、かつ登場人物は徹底的にパターン化されている。既視感のある登場人物をイ ラスト的に描写することで、表現を受容するのは飛躍的に容易になっている。
以上のケータイ入力での文書の特徴を列挙してみる。
- シンプルな表現になる
- 「段落」は消える
- 表現は典型的になる
このことから考えて、ケータイ入力はシンプルな表現を書き手に強制することで、 は読む方の負担が少なくしてくれる。その一方で、表現は常套句の連続になりがちであ り、典型的ではない問題を伝達するのには向かないと言えると思う。
道具が人をつくるのか、人が道具をつくるのか
さて、こうした分析を通じて考えることは、道具と表現との深い関連性だ。私は安易 に「現代人はこういう技術を手にしたからこうなった」とか「現代人はこうした性格だ からこうした技術を好んだ」と結論するつもりはない。
確かに道具がある種の表現を形成するのかもしれない。あるいは、そうした表現をしたい人間が、そうした道具を生み出し好むのもしれない。しかし、これはどちらか一方の現象というよりは、深い相互作用があるのだろう。
一人の人間として、ある道具に触れることである種の表現が形成されることが確かであるだろうし、そうして形成された表現は自分のものとして好ましくなりもするだろう。そして、更にそうした道具を進化させることだろう。
あるいは、道具の方向性に反りが合わずに苦しむことになるかもしれない。問題は「現代人」という抽象概念ではなく、一人一人の個人の表現の問題である。
例えばケータイでシンプルかつ典型的な表現をしていれば問題ない。そういうことをしたい人はそれがよい。同様にコンピュータで、入力が楽なことによる明るく具体的な文章や、日本語入力が介在することによる分裂的で犯罪的な文章を書いているのも問題ない。
問題は、そうした性格と異なることをしようとしたときだ。ケータイで複雑な表現をしようとすれば苦しむことになるのはみえすいている。あるいはコンピュータで内省的で連綿とした、観念的な表現をすれば苦しむことになるだろう。それは、その道具がその逆の方向で進化したからであり、その結果として人の文化がそこにあるからである。文化があるときに、人はそれを無視して進むことはできない。
こう考えると、多様化した現代では、「時代」に合わせるのではなく、自分がなしたいことによって、多様な選択肢農中から、道具を考える必要があるのだと思う。
ノート
† ただし本書では、石川九楊はタイプ入力の問題以前に、縦書きと横書きの問題を中心に考察している。
†† ここでは意図的に「……」で終始してみた。私が普段こういう終始をしないの は、日々読んで下さっている方ならご理解いただけると思うが。為念。
‡ もちろんデュアル・ディスプレイにしたり、画面を分割して複数の部分を表示さ せたりすることは可能であるが、プログラマを除いてはあまり普及していないと思う。
‡‡ いや、むしろケータイでは何も書かないだろう。そして、それが読者にとって一番ラクだろう。