ツイート |
アドラー『本を読む本』の書評から、爆発的に高校生のための読書法として(1)読むべき本を知る、(2) 本の読み方、(3) 6つのありがちな間違いと書いていた。「あほか? 俺」というペースであるが、ここで更にペースを早めたい。
今では懐しい響きすらある言葉に「知的生産」がある。IT革命以前の言葉で、パソコンのテクというよりかは、ファイルや書物という紙媒体をいかに使い、効率的に情報を管理し、生産するかという分野である(勿論、後半はパソコンも使ったが)。
そしてこの分野でどうしても知らねばならぬ名が二つある。その片方が、今回紹介する本の著者、梅棹忠夫である。
初版はロック好きにはたまらない、あの1969年である。
余談だが、もし君が若くて「69年がどうしたの?」という不届き者であるなら、即座に村上春樹の『ノルウェーの森』と村上龍の『69(シックスティー・ナイン)』 『限りなく透明に近いブルー』を読めばよい。69年学の入門書としては最適であろう(私は嫌いだが)。少しウォーミングアップしたら、あとは、ロックを聴けばよい。ジミヘンにはまるもよし、ジャニスにはまるもよし、なんならストーンズでもビートルズでもよい。ウッドストックのDVDだって安いもんだ。そして、そのまま「ブルースって何?」と考えながら、戦前ブルースの世界に突入し、チャーリー・パットン、サン・ハウス、スキップ・ジェイムス、ロバート・ジョンソンあたりで唸ればよい(いくらでも巨人がいる)。今あげたCDが君の図書館になければ「人類の遺産なのです!」と訳の分からない奇声を発っして入れてもらえばよい。気分はドストエフスキーの登場人物である。
コンピュータの時代に本書を読む理由
本題に戻ると、まあ梅棹先生のこの本はロックやブルースとは深い関係があり、その情熱はすさまじいものがある。というのは、真っ赤な嘘であるのだが、学術の奥深しさや権威に支えられた秘術的な要素を「技術」という言葉で乗り越え、効率化し、共有できるものにしようとした熱意は、時代に共通のものであると思う。
「先生! そんな昔のモン、今読む必要なんてないんじゃないですか?」 と賢い君は言うかもしれない。「はっはっは。カート・コバーン(コベイン)も知らない君じゃ無理ないね」と私は紳士的に笑いながら、君をブン殴るだろう。
よく考えて欲しい。そもそも私達は情報媒体としての紙から開放はされていない。物理的に紙は身の回りに散らばっているだろう。だから君はB5の26穴のバインダーを使うか、大学ノートを使うか悩んでいるだろう。だから君は、「これからはA4だぜ。B5ってのは国際規格じゃないから廃れるよ」という友人の言葉に動揺しているだろう。プリントを穴開けパンチで穴を空けてファイルに綴じるのが面倒な君は、プレスファイルかクリアファイルにぶち込んで、いざ必要な時に苦労していることだろう。そうした問題に対し、大の大人が自らの受難の経験を綴った本書を、君は読まないわけにはいかない!
「先生! でも、そういうことってこれからパソコンが普及すれば解決するんじゃないですか? ほら、ペーパーレスとかってテレビでも言ってますよ。僕はあれだな。スキャナーで全部PDFにしちゃうな」と、親が小金持ちな君は言うかもしれない。「んな金あるなら、俺によこせ!」と叫びたいところだが、事態はそう簡単ではない。
考えてみて欲しい。パソコンに入れたから問題は解決しているだろうか? 結局パソコンの中でもファイルやフォルダといった紙のメタファー(比喩)を利用している。つまり、パソコンの中で、あたかも紙のように管理している訳で、本質的には紙の管理能力はパソコンの運用能力と同じである。いや、逆にウィンドウを覗き込みながら、マウスでポチポチやるのだから効率が悪いくらいだ。物理的な紙ならガバっと鷲掴みにして机の上にぶちまけたり、気違いのようにページや紙の束を捲ることができる。はっきり言う。気違いのようにマウスを押すよりは、気違いのように紙を捲った方が全然らくである。
それでも君に一つ言うならば、パソコンには強力な全文検索がある。キーワードさえ分かれば強力に必要な文書を発見してくれる。これには物理的な紙の情報管理は絶対に敵わない。しかし、現実的に知的生産の場では、全文検索をしたい場面というのはほとんどない。高校生の君は勿論のこと、大学生のレポート、論文などの執筆にしても全文検索で情報を見つける場面というのはよほどのことである。考えてもみてほしい。それほど情報が整理されてないのに、いいものが書けるわけがないだろう。そもそも、それならばグーグルなりヤフーなりを使った方がいい。
現実的な情報管理では物理的な紙の持つ「一覧性」「身体インターフェイス」に、パソコンは敵わない。全文検索より、印刷した紙を綴じておいてパラパラ捲った方が全然効率がいい。
パソコンが役に立つとしたら大規模な情報を複数人で利用する場面である。それは君が会社に入ってからすればいい。個人でデータベースを作りたいという妙な野望があるなら私は止めはしないが、それは君の欲望を満たしはするだろうが、現実的には何の役にも立たないだろう。
君が通常の脳味噌を持っていて、ただの小金持ちな親の子供であるならば、買った本の管理は本棚でできるし、図書館で借りた本を日記なり書き抜き帳なりに記録しておけば、ほぼ問題はない。そうした本棚を日々眺め「しめしめ、あとちょっとで新潮のドストはコンプリートだな」と暗い微笑みを浮かべ親を不安にさせればいいし(大丈夫。『悪霊』や『死の家の記録』などの題名だけでも十分に君の親は不安がっている筈だ! 『カラマーゾフの兄弟』だって兄弟の愛の物語かと思いきや、「父殺し」の文学だと聞けば君の親父は安心して眠れないことだろう!)、寝むれない夜にノートを見返しながら「ああ、この本読んでたとき、○○さんは……」と全然関係のない女のことを思い出して苦しむのもよい。そうした行動で君の知識は十分に有効なものになる。ガキのくせにパソコンに頼るなんてもっての他だ。
ただ「パソコンを窓から捨てろ」と私は言わない。君には是非ともパソコンは使えるようになって欲しいと思う。しかし、下らんウェブサイトを眺めてはならないし(エロサイト見るならエロ本買え! 我々の世代はそうして社会性と自らの暗い欲望のバランスを取ることを学んだのである)(ブログ書くなら大学ノートに書け!)(っていうか、こんあブログ読んでんな! 分厚い本を狂ったように読め!)、チャットやmixi、オンラインゲームにはまるなど論外であるし(まあ、そんあもんに魅力を感じるやつは、こんな文章はハナから読まんだろう)、ワードやエクセル、パワポを使って喜んでいる場合じゃない! あんなもんは猿でも使えるし、そもそも欠陥品である!
君はプログラミングを覚えるべきである! それもJavaとかVisual Basicなんて軟弱なものでは駄目だ! CかC++の古めかしい本を買って来て、ゴツゴツ学ぶべきである。アルゴリズムやデータ構造の書物も必修である。余裕があれば是非ともLispを学べ! そこから数学基礎論や分析哲学の奥深い世界に進むもよいだろう。そこでは、フレーゲやラッセル、ゲーデルにヴィトゲンシュタインなどの大天才が神の如くに笑っているだろう。そして君の論理に対する感性を刺激し、興奮させてくれるだろう。あるいは、情報学を追いかけるのも未来ある君にはふさわしい。そこでもフォン=ノイマンやチューリング、シャノンなどの嫌になるほどの大天才が君を存分に鬱にさせてくれるだろう! 君は自分の親の顔を見て「ああ」と嘆くことうけあいだ!
話は十分に逸れたが、まあ、そんなわけで、コンピュータはコンピュータで奥深いが、君はまず紙の情報管理、知的生産から学べということであり、その為には、この本は是非とも読んでおいてもらいたい。そして、この本が分かるようになれば、コンピュータの扱いも格段に上達するはずだ。実際にファイルやフォルダ、キャビネットという物を動かして悩むなかで、仮想のファイルやフォルダ、キャビネットの効果的な使い方も覚えられるだろう。君達はまだ現実のそうした物を十分に触っていない筈だから、初めから仮想のものを触るのは効率が悪い!
現在、本書を読む上での注意
コンピューターの問題をクリアしたなら、この本を読む上での注意は少いのだが、一つ二つ忠告はある。
まず、君は本書の影響を受け、文房具屋に行き「京大カード下さい」と言うことになると思うが、本書で著者も言う通り、絶対にカードは分類してはならない! 自然にそれぞれの項目がくっついてゆくという感覚だけが大切であり、始めから分類しようとすると、確実に破綻する。これは著者の言っていることであり、この忠告にだけは耳を傾けて欲しい。客観的な分類は、図書館やデータベースのような大規模な情報を複数人が運用するときにのみ必要なのであり、君には必要ない。存分に主観的にメモをとり、存分に主観的にカードを並べ、あらぬ妄想にふけることをおすすめする。
次に、君は本書の影響を受け、文房具屋に行き「ダーマトグラフ下さい」と言い、文房具屋のオヤジを驚かせるだろう。いや、海千山千のオヤジであれば「はは、こいつ梅棹読んだな。若いと影響されんだよな」と内心で笑うかもしれない。これについてだが、現代ではマーカーやゲルインクペンの品質が十分にあがった。そちらを使った方が効率的であり、効果的に目に入るマークやラインが引けるかもしれない。まあ、そう言いながら私のペン置きにはダーマトグラフが置いてあるが、これはあくまで歴史的な問題であり若い君達には関係はない。
最後に、カードだけが究極と思ったりしないでもらいたい。例えば、君の学校のノートは大学ノートかルーズリーフがやはりよいと私は思う。時系列の情報は大学ノートにまとめるのが、確実であり紛失の恐れがない。もちろん、友人のノートから写したり、あとから書き込んだりする真面目な生徒はルーズリーフの方が取り扱いがよいだろう。ただ、大学ノートでも、微妙にスペースを空けながら書けばよいのであり、そうしたせこい技を覚えることは結構重要である。というか、勉強の内容そのものよりも、そっちの方が重要である。
加えて言えば、学校の勉強は学ぶところが少ないように思うだろうし、私もそう思うが、決っしておろそかにしてはならない。高校レベルが確実でないやつなんて、誰も知的には相手にしてくれない。
更に言えば、日々の授業はとても大事であり、ノートは宝である。一年生の時から三年生の時まで、きちんとノートを取っておいて、それを全部きちんと机に並べておけば(三年間のノートくらい並べられる大きさの机がなければ、親に泣きつくこと!)、無理して復習なぞしなくても、無意識に「ああ、このノートにはあんなこと書いてあったな」と脳味噌が勝手に復習してくれるのであり、これはとても重要な勉強法である。そして気になったらたまにパラパラめくればよい。大学ノートは通常30枚の紙切れの集まりであり、パラパラやるのに時間はかからない。何回かやっていれば自然に頭に残っている筈だ。これで学校のテストも大学入試もほとんどいける筈だ。
よく参考書だのサブノートだの買い込む奴がいるが、そんなものは必要ない。ごちゃごちゃやれば、それだけ密度は薄くなり効果は低い。そんな金あるなら、人類の遺産とも言うべきCDや書物を買い、展覧会に行けばよい。ガキとは言え、女と遊ぶのにも金はいるだろう。無駄な参考書など買うことはないし、高校の勉強に無駄な時間を浪費することもない。授業とノート、これだけで結構いける。
「先生! 僕の高校ではそんないい授業やってないんですが!」と言いたい人も居るかもしれない。これは難しい。ただ一つ私の話を聞いて欲しい。私も高校の時、そう思っていた。それでも大学入試の時、残り少ない髪の毛を必死にハゲ頭に寄せたデブな数学教師と痩せきった生物の教師、それに何より何度も目に入れた自分の書いた汚いノートなどが問題の答を教えてくれた。綺麗な参考書など何の役にも立たなかった。記憶とは、情報だけじゃなく、肉感的、情感的なものの方が残りやすいし、思い出しやすいのだと思う。まあ、個人差もあり難しいので、この辺にしておく。