知的生産のプロセスについてもう少し考えてみた。すると、既存文脈の解体と新規文脈による再構築がなされているというのではないかと思いついた。
先日は知的生産のプロセスを以下のように考えた (知的生産のプロセス):
- 収集: 情報を収集する。ゴミがあってもかまわない。
- 選別: 集めた情報からゴミを排除する。
- 理解: 選別された情報を分析してゆく。
- 記憶: 理解内容を記憶する。カードなどで記憶を外部化し、その外部化した記憶の操作によってもよいかもしれない。
- 閃く: 記憶や外部化した記憶の操作を通じ、アイディアが湧く。
- 原型作り: アウトラインやプロトタイプなどアイディアの表現の骨となるものを作成する。信頼できる協力者がいる場合には、簡単なメモでも伝達できるのかもしれない。
- 作成: 実際に作成してゆく。
このプロセスは以下のようにも考えられると思う:
- 情報の脱文脈化: 集めた情報を個別に切りはなす(1~4)
- 情報との戯れ: 個別の情報を操作する (4-5)。思い浮かべたり、紙に絵を書いたり、数値を視覚化したり、カードを並べたりして戯れる。
- 新文脈の創発: 情報を再文脈化する新しい枠組みを思いつく (5-6)
- 情報の再構築: その枠組みに沿って作品を構築する(7)
2番目の「情報との戯れ」と3番目の「新文脈の創発」が自分にしかできない。他人はもちろん情報処理機たるコンピュータにはできない †。
現実世界では枠組みが与えられない。むしろ、あらたなパラダイムを創造することが仕事になる。それ故、問いをたてられれば仕事の大部分は終わる ‡。
だから個別の情報を理解・記憶しても意味がないことが起こる。それが、どの程度、新規の枠組みを想像するに足る操作性であるのかが問われる。ただし記憶にしろ記録にしろ、操作可能にしておくのは必要不可欠だ。自由に操作できなければ、つまり戯れられねば、どうして新しい枠組みが閃けようか。
問題は新しい文脈の創発だ。だから創造的な仕事ではメッセージは新しいパラダイムに他ならず、パラダイムがメッセージになっている。内容と形式との問題は、ここにおいて超越される。
さて、ではどうしたらいいか。ということで次回へ続く。
notes
† 逆に言えば「情報との戯れ」と「新文脈の創発」以外は、本質的に情報処理機でできる。つまり、大半の作業は、コンピュータが行える。現に書籍やレポートのコンピュータによる自動生成は既に行われ、そうした本は売られている。
‡ 通常の学習では枠組みも問題が与えられる。だから、学習者は記憶された個別の情報を基にして、その問題への答を記述する。問いがあるおかげで 3 番目のプロセスの必要がない。そして、多くの場合、外部記憶(= 記録)を利用できないので、記憶の能力が重要視される (持ち込みが許された試験の場合には、外部記憶の操作能力が大切になる)。