先日 Amazon の kindle がアメリカで爆発的な人気の一方で、日本ではソニーと松下が電子書籍端末事業から撤退することについて雑感を書いたが(参照)。電子書籍端末(ebookリーダ)の普及は私たちの生活に大きな影響を与えるものだと考えている。ここではその期待をリストアップしてみた。
- 「ネット短文」という悪循環から逃れられる。ネット短文の悪循環とは、ネットで短文しか読みにくいことで、次第に本からネットにシフトした読者は長文を把握する能力を消失してゆき、更に短文しか読まなくなってゆき、同時に書き手も長文作成能力を失うという現象のこと。以前には印刷と簡易製本でこの問題の解決を考えた が、電子書籍の普及はこの問題を解決するだろう。(ちなみに、文字数と文書の種類については 文章の文字数と時間の関係 を参照)。
- ネットからダイレクトに著作権の切れたテキストを読むことが一般化する。もう漱石や太宰を読むのに出版社に金を払う必要はないということだ。更に、海外のニュースを読むのにも、カントやヘーゲル、ニーチェを原典で読もうと思っても無料で即座に行える。今まではテキストがいかに無料で手に入ったとしても印刷や製本のコストや出来を考えれば書籍購入の方がはるかに分があった。それが、電子書籍端末の登場で状況は一変することだろう。
- 学術情報のオープン化が加速する。更には、学術論文にはオープンアクセスの動きがあり、教科書もオープンソース化される動きがあるので、端末さえあるだけで質の高い情報へのアクセスがどんどん可能になってゆく。そして、読者が増えれば増えるほどこの運動は好循環して加速することだろう。大量の質の高いテキストが与えるであろう「力」を考えると、政府はネット接続と質の高いフォントと端末を国民全員に与えたっていいくらいだと割に本気で思う。
- ネット上の書き手が変化する。ネット短文の悪循環が切れることで、ネット上の書き手の質も変わると思う。このことが電子書籍端末の普及に対して一番期待することだ。従来はネットでの文書は短文が基本だった。しかし、そうした障害が取り払われる。「目の負担」という障害を取り払われたネットからは、新しい表現が生まれてゆくことだと思う。パソコンでの小説よりもケータイ小説が普及した理由の一つには、ケータイの画面の方が目の負担が少なかったからだと思う。印刷物と同じサイズでの画面を手に入れたネットワークの表現にとても興味がある。
- PDFが普及する。>簡易な HTML の表示よりも、PDF でページとしてレイアウトされたものが好まれるかもしれない。端末が「紙」のように PDF を見せてくれるのならば、動作の重さの問題さえなければ、PDF をもっと読みたいと考える(実際、論文はほとんど PDF である)。 もちろん、一方で従来の通りのスクロールの文章も残り続けるだろうが。
- 鬱病や頭痛が減る。仕事のディスプレイが「紙」のようになるならば、目の負担がかなり軽減されるのではないかと思う。事実、仕事の文書の大半で色はそれほど必要ない。にも関わらず、エクセルの表やらワードの画面を見つめて仕事をする人は、電子書籍端末で仕事をすることで、かなりストレスが減ることと思う(とはいえ、現状では入力でのレスポンスで問題があるが。こちらは、やはりディスプレイの高性能化に期待する方がいいのかもしれない。それでも、少なくとも閲覧の時には有益だと思う)。資料も印刷ではなく PDF を直接開けると、会議のときにもとても便利だと思う。「ネットに与える変化」ではないが。
ところで、こう言っては何だが、書籍の電子化にはそれといった期待をしていない。勿論、辞書が電子化したことによるメリットがあったように、書籍の電子化はメリットをもたらすだろう。しかし、これはただ単に書籍にデジタル化したメリットであるに過ぎない。この考えでは何も新しさは誕生しない。
と、こう考えていると、単純にノートパソコンが高性能化すればいいだけという気もしてきた。どうなんでしょう?