2006-12-03

「物」概念はコンピュータとネットでどう変化するか

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IT時代の〈モノ〉: "コンピューティングとネットワーキングによって「物」が従来の物ではなくなりました。" とか書いたけど、これけっこう重要。

今までは「ある」と言えば物理的に形や重量を伴なって存在していたが、コンピュータの登場によって「音楽」とか「データ」、「文章」が形態や重量を伴わないで存在できるようになった。この変化は、人に認識にどのような変化を与えるかは考えると面白い。

ところで、同じ「情報」にアクセスするにも、その情報を収納した物質を介したアクセスと、コンピュータによる架空のインターフェースを介したアクセスが可能になった。これは「ハンバーグを作るレシピを知りたいな」と思った時に「あ、確かあの本棚にある、あの本の前の方にのってたな」とか探すのと、ネットで「ハンバーグ レシピ」とググるときの差と言える。

それを収納した物質を介さないで情報に触れられるようになったことで、そのインターフェースが問われることになった。多くのインターフェースは「ボタン」などの現実に存在する物質の比喩を使って、現実から離れないインターフェースを提供している。しかし、それが本質的にコンピュータやネットワークにおける最善のインターフェースであるかは分からない。フォルダやファイルという概念は最善のインターフェイスであるとはかぎらない。

実際、国産のTRON OS超漢字では「実身、仮身」という独自のリンク機能を内蔵したファイルシステムをとっている。ネット上でもソーシャル・ブックマーク・サービスなどでは、ファイルやディレクトリによる「一情報、一経路の分類」ではなく、タグによる「属性を与えることにより、ある情報を複数の属性から探せる分類」へと変化している。あるいは、全文検索による「分類の放棄」もある。

それにしても、インターネットは文字を読むには優れていないと思う。本の方が圧倒的に読みやすい。それは画面と紙の光度の差、解像度の差にあるだけでなく、コンピュータのスクロールで「場所」が感覚的に把握しずらいことや、本にはあるしおり、マーキングができないことにもあると思う。読みかけの本や書類をポンと机に置くような気軽さ、難しい文章や長い文章をマークしながら重要部分をポストイットするというようなことができない。長い文章を読む道具として考えた場合、表紙・背表紙・目次・索引を備え、書きこみや付箋に対応した「書籍」というインターフェースは、ブラウザのインターフェースをはるかにしのぐ。

しかし、私が言いたいのはコンピュータのインターフェースが本のそれを真似るのでは意味がないということである。不可能である。画面がいくら大きくとも、背表紙が並んだ本棚や乱雑に表紙をさらす机などを再現することは、画面のサイズがいかに大きくなろうが、それはあくまで真似に過ぎない。

本質的に新しいインターフェースを人類は開発しなければならない。そして、それは知性のありかたすら変革するものだろう。媒介は内容を規定するのだから。

すでに何人もの研究者がそうした未来のコンピュータ、インターフェースを考えている[1]。この情報という概念を変化させ、情報にアクセスするという概念すら変化させるところが、コンピュータの凄いところ、希望であるのかもしれない。それは政治や文学、さらには生きるということ、肉体という概念すら変えるのかもしれない。こうした問題についても参照すべき多くの研究がある[2]。ただし、そこにある不安を私は拭えずにはいられないのだが[3]。

notes

  1. ブッシュのMEMEX、アラン・ケイのDynaBook、テッド・ネルソンのXanadu、ダグラス C. エンゲルバートなどをググってみるとよい。最近はエンゲルバードがHyperScopeをリリースした。私はちゃんとテストしてないが。
  2. ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」、マーシャル・マクルーハン (1962)『グーテンベルクの銀河系』、ジェイ・D・ボルター (1991)『ライティング・スペース - 電子テキスト時代のエクリチュール』、ノルベルト・ボルツ (1992)『グーテンベルク銀河系の終焉』、
  3. 例えば身体が獲得すべき感覚を養わずに成長した場合、人間がどうなるかを私は不安に思う。実感としての速度、距離・長さ(目測や投擲・移動の実感)、重心感覚などの感覚を既に私の世代は上の世代よりは失なっている気がする。まあ、わからないが。
  4. 山口裕之 (1998) インターネット講座「メディア・情報・身体—メディア論の射程」

関連エントリ

  1. 電子書籍端末の普及がネットに与える変化