Googleマップ ストリートビューの気持ち悪さ を書いたら、Googleマップが地図ではなく仮想世界であることに気づいた。このことをどう考えるべきだろうか。
Googleマップ ストリートビューは地図ではない。地図とは俯瞰するものだ。その中で移動できるのもは地図ではない。仮想世界だ。グーグルは地図を作成するふりをすることで、リアルで広大な仮想世界を安価に手にいれてしまった。
Google マップとは「地図」ではなく、仮想世界をリアルかつ安価に構築する技法だったのだろう。これほどにリアルな仮想世界を作るには、実際に撮影してしまうのが一番安あがりだ。こうして「構築 = 撮影」した仮想世界を活用するだけの能力を Google は十分に有している。この映像を更に分析し、衛生からの画像とも合成することで 3D 世界としての操作性を上げることも可能だろう。
そこから何が起きる? ネットゲーム? いや、そもそもゲームですらない本当の「第二の世界」だろう。そこでリアルに買い物するのは難しくない。道は準備されたので店舗さえあれば仮想世界は更に広がる。ショッピングの客が増えれば、そこで働く人間も増えることだろう。(既に Everyscape という建物の中にまで入れるサービスが存在する。)
成功すれば、Google はまさにモノに溢れた「世界」を一つ、デジタル化して保有することになる。広告収入は莫大だ。ネットの 3D のインターフェイスは失敗の連続だった。しかし、この計画の成功はそれほど難しくないように思える †。
だから、グーグルのネットゲームでは部屋しか準備しなかったのかと思う。あのネットゲームの部屋とストリートビューを接続するのは難しくない。あのネットゲームの「冴えなさ」は「大企業病」などではなく、戦略だったのだろう。
現代人は世界をモノとして捉えがちだ。だいたい話は「行った、買った、食った」である。その「行った」はだいたいは視覚的な情報に過ぎず、写真で代用可能となっている ‡。そうなると、観光やショッピングの「意味」の大半はこの仮想世界の中で行えるということになる。
音楽をライブで聴くことがある種の「贅沢」であり、通常はCDやmp3などの複製で聴くことが日常となったように、観光やショッピングで「現地」へ足を運ぶことがある種の「贅沢」となるという時代は、そう遠くないのかもしれない。
notes
† もちろん、世界をモノとして捉えるなど、私個人にはナンセンスだが。技術の発達が価値体系を変革する で書いたように、今後、技術発達の「行き過ぎ」が私達の価値観の再考を促す場面が増えることと思う。
‡ 街は人と人が出会う場所ではない。その意味で出来事は起きることはない。街はモノの世界である。人はモノと出会うために街へと向かう。そして、世界の意味が出来事でない以上、その意味は物的証拠が担う。フィクションの世界、あるいは現実でもそうなのだろうが、ある場所に「存在したこと」を証明するために、「土産」と「写真」を入手するという行動がよく見うけられる。