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自分の十年前を思い出しながら、リーマンショックという今の成り行きを眺めていると非常に感慨深い。
私の学生時代、つまり90年代後半とは、欧米の投資銀行や企業買収ファンド、ヘッジファンドなどが猛威をふるった時代だった。日本は果てしなく弱く、アングロサクソンは強かった。
「社員は悪くございません」私が高校三年生だった97年、山一證券の社長は泣いて頭を下げた。「みんな私たちが悪いんであって、社員は悪くありませんから! 善良で能力のある社員たちに申し訳なく思います。」
山一本社所属の従業員や店舗の大多数はメリルリンチが設立した「メリルリンチ日本証券」に移籍・譲渡された。私が外資金融を知ったのはその時が初めてだった。
私はバブルを知らない。知っていたとしても愚かさとしてであり、強さとしてではない。当時、「日本式」とは「間違った」の代名詞として響いていた。終身雇用、年功序列、メインバンク制、護送船団方式、稟議制度に代表される集団主義的・ボトムアップ方式の意思決定……。
ことは経済だけではない。それまで隠蔽されていた政治腐敗は常に暴露されつづけた。中2の冬に阪神淡路大震災と地下鉄サリンがあり、中3の間はオウム報道が常にテレビに映っていた。
高1の夏にはサカキバラ事件である。また、高校生の間に暴露された官僚の腐敗(「ノーパンしゃぶしゃぶ」)は、若いだけにその下劣さに、私は憤りを通り越し、萎えた。私の高校出身の官僚もノーパンしゃぶしゃぶのリストに乗っていた。
地震が起きても燃えるに任せるしかないリスク管理のできない国。強欲で無能な官僚と政治家の国。国家をゆるがすような宗教団体に全く気がつくことなく毒ガスが撒かれる国。下劣なワイドショーで真相には一向に迫らないメディアの国。社員が「善良で優秀」であっても経営が悪くて破綻してしまう国。
そうした世代の目がアメリカに向かうのは当然だった。高校に通っていた時にも、多くの同級生がアメリカのビジネススクールで MBA を取ることを一つのマイルストーンにしていた。
漢文や古文は無駄で、その分を英語に回すべきだと語っていた友人は強く指示を得ていた(私は漢文をよく読んでいたのでそれに反対だった)。
私はというと、そうした国際金融の枠組み自体に違和感を持ちつづけていた。山一證券破綻についても、その前のアジア通貨危機の関連で捉えており、そのアジア通貨危機の引き金としてのヘッジファンドを代表とするグローバル資本への違和感を募らせていた。ただ、図書館でマルクスを借りたりして、現国の先生と話したりもしたが、いまいちピンと来なかった。
私と同級生たちの目線は同じだったと思う。ただ異なっていたのは紙一重だった。
こうした孤立化は高校の同級生の大部分が公務員か上場企業の社員の息子であったのに対し、私が中学校しか出ていない千葉の町工場の息子であったことも強く関係しているとおもう。
貧困の問題は強者には関係がなく、苦しむのは貧しい者である。私は肌で所謂「産業空洞化」を実感していた。家庭と工場に別がなかったので、小さい頃から帰宅後には仕事に駆り出され現代の若者風の遊びは出来ず、景気が悪化すると、この国の加工業と銀行の状況変化を食卓で感じつづけた。
ちなみに、子供の学歴と親の年収は強い相関関係がある。高校に入ってすぐ、この国が世襲の身分制の国に他ならないことを私は強く認識していたし、それ以上に、富める一族には富めるだけの理由があり、貧しい一族には貧しいだけの理由があることも強く感じた。
それは金銭的な問題ではなく、マインドセットの問題である。私は親の経済力の無さにも勿論苦しんだが、それは自分のバイトでまかなえたし、勉学に勤しみ、情報を探索すれば世の中には奨学金制度や学費免除制度がある。
しかし、親の精神や意識の貧しさは、巨大な問題であった。情勢に対する先見の明の無さ、刹那的な消費、虚栄、強欲、愚痴に苦しんだ。
私は親の仕事を助け、金銭的にも助け、工場が潰れた後には、次に始めた仕事も助け、最後に私が就活してコンサルタントの会社の内定が決まりかけたときに、父親が「トレンディ・ドラマのようだ」とか「嫉妬をおぼえる」などと俺に言ったときに、俺の中で、それまでに既に限界に達していたものが崩れたのだと思う。
都内の有数の進学校に合格したときも、国立大学に合格したときも、一度も褒められはしなかったし、教育費の面での負担の愚痴をぶつけられたが(そもそも高校時代から私はほとんど自分の稼ぎと奨学金で食って学んでいたのだが。大学入試の金は祖母に借りた)、少なくとも嫉妬などという言葉はなかった。
まあ、父も辛い時期だった。それは理解できる。数々の暴力も罵倒の言葉も全て赦せる。しかし、しかし、である。私は未だに「嫉妬」という言葉を吐く父親を理解できていないようにも思う。そうして愛に飢えた男は不安定で脆く、弱いのだが、そうした自分を私はどうすることもできないのかもしれない。
そんなこんなで、孤立した私だったが、大学時代には様々な国の友人との出会い、グローバリゼーションの問題について思索を深めていけた。
イニャシオ・ラモネの 金融市場を非武装化せよ などを読み、トビン税やATTACに強い興味を持ち、01年に来日したベルナール・カッセンの話をきいた。柄谷行人とマイケル・リントンらの地域通貨にも興味を持ったのもこの流れだった。
日本の友人は少なく、中国人や欧米人の集まりばかりに顔を出した。大陸の人間のストレートさと自負心、そしてそれを支える教養に、私は心が癒された。
次第に欧米金融を中心とした多国籍企業を目指す日本の同級生より、そうではない仕方でのグローバリゼーションを考える人々との交流が増えていった。
2001年9月11日にもそのように通り過ぎた。私の実家にはアメリカ、中国、ドイツから次々と国際電話があり、日本にいる留学生の友人からも電話があった。彼らと国境を越え、メールやチャットを交わす中で、私たちは何かを感じていた。
いや、その議論の中身ではなく、そうして一つの事象についてインターナショナルに語れること自体が、その「何か」だったのかもしれない。
互いに自国のマスメディアの外の情報を交換し、互いの国のメディアについて議論した。
ITと関連しつつ、私は何かを強く感じていた。それはマスメディアの外、ナショナリズムの外、資本主義の外にあった。
皆がそれぞれに考え、生きている。それぞれがそれぞれの道を歩んでいる。
私が高校生だったときの世間の常識はすっかり変わりつつある。狐につままれた気がする。そんなものなのだ。時代というものは、マスメディアが伝えるものは、大人の言うことは。
まあ、そんな雑感を書きたかった。