2006-11-12

野口晴哉『偶感集』より

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一片の花にも美しさを感じさせる秩序がある。
一つかみの雪にも自然の秩序が整然とある。その自然の秩序を人体上に現わしているものを健康と私らは感ずる。

健康を保つことは、どんな方法であっても、そのことが美として感ぜられねば、自然とはいえない。技術が真に行なわれれば美である。それ故、薬が苦く、注射が痛いことは間違っている。腹を割いて盲腸を切り取ることも美しく感ぜられない。治療することが美しい現われであるのに、何故その手段が美しく感ぜられないのだろう。
自然でないからである。

自然は美であり、快であり、それが善なのである。真はそこにある。
しかし投げ遣りにして抛っておくことは自然ではない。
自然は整然として動いている。それがそのまま現われるように生き、動くことが自然なのである。

鍛錬しぬいてのみ自然を会することが出来る。

懐手で知った自然は自然ではない。
頭で造った自然はもとより人為のものである。


「自然こそ全て」と語ることそれ自体はよく見る。しかし「投げ遣り」が自然なのではないと釘を刺す。自然とは鍛錬しぬいてのみ会することが出来ると説く。

これは私の「カタ」の考えと同じと思う。私は、人はカタをもって初めて、そこで安らぐことができると考えている。故に、ただ、なげやりになって座ったり、歩いたりしては、それは自然ではない。

カタがあって、整然とその所作を済ますことが自然であり、それが美であり、快であり、それが善なのである。つまり、美しくなかったり、快適でなかったり、善でないようなカタはありえないのである。無理をして、意図してカタをまねるということはありえない。カタとは、自然で整然として美しいものなのである。

稽古し、鍛錬し、吟味し、そこで初めて人は自然に会し、そのカタの中で安らぎ、くつろぐのである。